座談会御書講義

座談会御書「乙御前御消息」講義(2021年3月度)

いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり

いよいよ強盛な信心を起こしていきなさい。氷は水からできるが、水よりも冷たい。青い色は、藍という草から生まれるが、重ねて染めれば、藍よりも色が鮮やかになる。同じ法華経ではあっても、信心を重ねていくならば、他人よりも生命の輝きが増し、利益もあらわれてくるのである。

背景と大意

今回、皆さんと学んでまいります「乙御前御消息」は、日蓮大聖人が54歳の時に身延で認められたとされている御書です。

「乙御前御消息」と言う名前がついていますが、乙御前と呼ばれる娘を持つ母親に与えられたお手紙です。

またの名を「身軽法重抄」といいます。

「身軽法重」とは、「身は軽く法は重し」と読み下し、身命をかけて正法を弘める精神を示したものです。

乙御前の母親は、当時は生き抜くこともままならないシングルマザーという社会的に弱い立場の女性門下でした。

しかし、大聖人が佐渡に流罪された時には、鎌倉から遠路はるばる佐渡へ足を運んでおり、大聖人から「日妙聖人」という称号まで頂いています。

この御書が認められたのは、二度目の蒙古襲来が予想されており、日本中が不安に包まれているという時代背景です。

乙御前の母は、そんな世の中にあっても、身延の大聖人の元を訪れました。

まさに「身軽法重」の志で、健気に信仰を貫いていたのです。

本抄で大聖人は、乙御前の母に、法華経がどれほど尊い教えなのか、について詳しくご説明されます。

「法」が素晴らしいということは、その法を持つ「人」も尊いといえます。

弘める「法」が第一であれば、その法を弘める「人」も第一の人です。

大聖人は、法華経の行者は日輪と師子のようなものである、と仰せです。

「師子」とは、ライオンであり、何ものをも恐れぬ百獸の王です。

日輪とは太陽のことで、社会と世界を照らし、人々の心に希望を贈る存在です。

また、信心の強い人を諸天は必ず守ると述べられ、まさに乙御前の母がその信心の強い人であることを確認され、その上で、これまで以上に、強盛な信心を貫いていきなさい、と仰せになります。

そして「身軽法重」の法則によって、正法が弘まることは間違いないと仰せになり、たった一人の成仏の目を開くことの功徳ですら計り知れないのに、全世界の人類の目を開こうとしているのだから、その功徳は言い尽くせないとご断言されます。

本抄は、法華経は最高の信仰であるが故に、祈りを強めれば強く守られるのだから、さらに継続して信心を強めていくべきであると、呼びかけられている御書です。

先行きの見えない時代だからこそ、いよいよ強盛の信心を学んで参りましょう。

解説

まず「いよいよ強盛の御志あるべし」とあります。

これまでに説明した通り、乙御前の母は強い信仰を貫いており、大聖人も乙御前の母の信仰を最大に賛嘆されています。

その上で「いよいよ強盛な信心を起こしていきなさい」とのご指導です。

御本尊の功徳は無量無辺です。

しかし、そのお力は、信仰する人の信心の深さ、粘り強い実践に応じて現れるのです。

信心が弱く、実践もしないならば、せっかくの功力も宝の持ち腐れになってしまいます。

「いよいよの信心」の反対は、「いいよいいよの信心」です。

勤行せんでいいよ、お題目あげんでいいよ、会合出んでもいいよ、激励にいかんでもいいよ。

これでは、功徳が出るはずもありませんよね。

信心があれば、いかなる逆境をもはね返すことができます。

だからこそ、「いいよいいよ」の心を打ち破って、現状よりさらに一歩進んで信心を強めていくことが大事なのです。

続く御文に「冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる」とあります。

水が冷えれば氷となりますが、同時にその性質は大きく変化し、水よりも冷たい物質となります。

また、青い染料は、植物の藍の葉からとりますが、その染料に布などを漬けて染め上げる作業をかさねると、もとの藍の葉よりもはるかに鮮やかな青になる。

これらは、研ぎ澄まされることによって元の存在を超えた存在になるという、自然界の事例です。

その上で、大聖人は「同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり」と仰せです。

法華経と仰せの部分は、南無妙法蓮華経の御本尊と言い換えることができます。

御本尊は同じでも、祈る者の信心によって、その功徳の現れ方は変わります。

志をかさぬれば」との仰せは、信心を強め、そして持続することに他なりません。

色まさり利生もあるべきなり」とは、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れるという意味です。

つまり、いよいよ強盛の信心を持続し重ねることによって、私たちの仏界の生命は、さらに磨かれて、功徳に満ちていくのです。

大聖人はさまざまな御書で「いやましての信心」を強く奨励されています。

「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」、「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」、「いよいよ御信用のまさらせ給う事」、「いよいよ信心をいたさせ給へ」とのお言葉も見られます。

信心強盛な模範の門下に対しても、大聖人は「いよいよ」と仰せなんです。

言い換えれば、「いよいよ」の姿勢こそ、信心の極意と言えるのです。

池田先生は綴られています。

「信心の極意は『いよいよ』の実践だ。大聖人は、門下のそれまでの健闘を讃えられつつ、『今一重強盛に』と励ましを贈られている。“さあ、ここからだ”と祈りを深め、挑みゆく一念が壁を破る。本因妙の仏法である。新たな一日を、新たな勇気で、いよいよ強盛に前進していくのだ。あなたも、皆も、我ら創価家族は、藍より青く!」

まとめ

今まさに、厳しい環境にあって、行き詰まりを感じている人も多いと思います。

しかし、行き詰まりの壁にぶつかった時こそ、信心が試されている「勝負の時」ではないでしょうか。

どんな状況にあっても、信心根本に壁に挑戦することが、自身の境涯を広げていくことにつながることは間違いありません。

行き詰まりを打開する力こそ、「いよいよ強盛」の信心なのです。

私たちは池田先生のご指導を胸に、常に“いよいよ、これから”の精神で信心を重ね、ありとあらゆる壁を、毅然と乗り越えていこうではありませんか。

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