座談会御書講義

座談会御書「開目抄」講義(2020年5月度)

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし

私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを嘆いてはいけない。私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。拙い者の習性として、約束したことを、いざという時には忘れてしまうものである。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「開目抄」は、日蓮大聖人が佐渡に流罪中に四条金吾を通して門下一同に与えられた御書です。

大聖人は佐渡流罪の前年に竜の口の法難で首を切られそうになるという究極の難に遭われました。

そして弟子たちも投獄・追放・所領没収などの迫害を受け、ほとんどの門下は大聖人に文句を言って退転していきました。

一体どんな文句を浴びせていったか、というと、「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか?」という疑問です。

正しい教えを実践しているなら、法華経の行者を守護すると誓った諸天善神は一体なにをやっているのか。

なぜ、首を切られそうになり、佐渡に流罪され、弟子たちまで散々な目にあうのか。

疑問は批判となって大聖人に向けられます。

その疑問に対して、ごまかしたり、全然別の話をしたりしてすり替えたりせずに、真正面からお答えになったのが開目抄なのです。

全信徒に「目を見開いて大聖人の真実を見よ」と呼びかけられているとも拝されます。

本抄の全体を貫く最大のテーマは、「主師親」の三徳です。

「主師親」の三徳とは、万人が尊敬すべきものである「主の徳」「師の徳」「親の徳」という三つの徳のこと。

「主の徳」は人々を守る力・働き、「師の徳」は人々を導き教化する力・働き、「親の徳」は人々を育て慈しむ力・働きです。

一切衆生にとって真に尊敬すべき主師親の三徳を備えた存在は誰かを明らかにしていくいことが、本抄の骨格として貫かれている主題です。

本抄では、まず導入部で主師親の三徳について論を展開されていきます。

そして、成仏の法とは何かを示したうえで、大聖人ただ一人が法華経の行者として難を受けていることを明かされます。

その大聖人に「なぜ諸天の加護がないのか」との疑問に対しては、末法の行者が難を受けることは経文通りであると示され、そして、結論として法華経の行者として現に戦っている日蓮大聖人こそが、主師親の三徳を現した方であられることを宣言されるのです。

主師親の三徳を備えられている日蓮大聖人こそが末法の御本仏であり、大聖人の教えのままに師弟不二で戦う弟子たちもまた成仏できるのです。

少し難しくなってしまいましたが、今回の拝読範囲に絞って、もう少し簡単に説明させていただくと、「なぜ正しいはずの大聖人やその弟子が散々な迫害にあうのか」という疑問に対し、厳しい難があるのは正しい教えの証拠であり、どんな難に襲われたとしても、疑う心がなければ必ず成仏できるのですよ、と教えられたのが本抄です。

解説

冒頭に「我並びに我が弟子」と呼びかけられています。

開目抄では、日蓮大聖人御自身について、「真実の法華経の行者」であり、「日本の柱」であり、「末法の御本仏」であることが明かされます。

その意味で、「我並びに我が弟子」で始まる一節は、師弟不二の精神で師匠である日蓮大聖人の戦いに連なるための信心の極意をお伝えになる気迫に満ちた呼びかけと拝されます。

「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」とは、どんな難に見舞われようとも、信心を貫き通せば必ず成仏できるとの教えです。

続く、「天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ」とは、疑う心との戦い方を具体的に示されたものです。

法華経には、正法を弘通すれば必ず難が起こると説かれており、「三類の強敵」や「三障四魔」と言われる信心を邪魔する働きが表れるのは当然のことです。

しかし、これらの難に打ち勝って「不退の信心」を貫き通すならば、「自然に仏界にいたる」。

これこそ信心の極意を示した根本中の根本の御指導であり、永遠の指針です。

大聖人はこのことを門下に対して幾度となく繰り返し教えてきましたが、「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん」との御文の通り、多くの弟子は疑いの心を起こして退転してしまいました。

ゆえに、大聖人は全門下に対して「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と今一度厳しく戒められているのです。

苦難が表れた時に一瞬とまどいが起こるのは、しかたのないことかもしれません。

しかし、自分では乗り越えられないような苦難にぶつかった時こそ、境涯を開く「まことの時」なのです。

「まことの時」は信心を奮い起こす時です。

そんな時に、反対に疑いを起こしてしまっては、まるで「つたなき者」の姿そのものです。

何があっても疑わない、何が起ころうが嘆かない。

我々は、そう誓い合って、ともどもに誉れの信仰の道を歩もうではありませんか。

池田先生はつづられています。

「創価の師弟は、諸難の連続の中にあって、この仰せを『まことの時』に断じて忘れず貫き通してきた。だからこそ、一人ひとりが『自然に仏界』を勝ち開いてきたのだ。そして、これからも、諸難を一つまた一つ、勝ち超えながら、いやまして『仏界』という最極の生命の大連帯を、地球社会へ広げていこうではないか!」

まとめ

今、まさに「まことの時」に直面している同志がたくさんいます。

天の加護もなければ、安穏でもない。

疑わず、嘆かず、みな苦境に耐えて、必死に祈り続けています。

半年前には全く想像できなかった試練にも負けず日夜戦っている同志に、最大限の励ましとお題目を送りつつ、自らの困難とも敢然と戦い抜いて参りろうではありませんか。

私自身も、私の家族も、さまざまな環境の変化の中、いかに信心を自分のド真ん中に持ってこられるか、日々御本尊に向かいながら闘争しております。

そして、御書研鑽の活動を通して、自分自信の信心をさらに磨き、師弟の誓いもあらたに、広布にまい進する決意です。

-座談会御書講義
-

© 2020 御書研鑽しよう会