座談会御書講義

座談会御書「四条金吾殿御返事」講義(2021年1月度)

此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し 一珠も百珠も同じき事なり 一珠も無量の宝を雨す 百珠も又無尽の宝あり

この法華経の一字には釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳が納められている。たとえば如意宝珠のようなもので、一珠も百珠も同じ事である。一珠でも無量の宝をふらすし、百珠にも無尽の宝が具わるのである。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、四条金吾が日蓮大聖人に御供養をお届けした御返事として、文永9年の9月に流罪地の佐渡で認められたお手紙です。

仏の素晴らしい「声」、つまり梵音声(ぼんのんじょう)について述べられているので、別名、梵音声御書とも言われています。

本抄で大聖人は、これまでのさまざまな迫害は、正法を弘めようとしたための難であること、また、末法の法華経の行者の使命のままに、さらに一切衆生を救済する法華経を弘げいくことを力強く宣言され、四条金吾の真心を讃嘆されています。

四条金吾は亡き母の三回忌の追善回向のため、わざわざ鎌倉から佐渡まで使者を遣わして、大聖人に供養を届けられました。

金吾といえば、竜の口の法難の時には、自身の死すら覚悟して、涙ながらに大聖人のお供をした弟子です。

この年、門下一同のために書かれた重書・開目抄を受け取ったのも金吾でした。

その後、鎌倉でも大聖人門下への迫害が激しくなっていたにもかかわらず、誠心誠意、師匠に仕えようとする弟子の行動を、大聖人はことのほかお喜びになったのではないでしょうか。

それでは簡単に、本抄をまとめさせていただきます。

はじめに、国の動向は王様によって決まることを示されて、仏法が弘まるのも王様によって決定されてしまうことを述べられます。

したがって、それが程度の低い教えであったとしても、王様が弘めれば急速に弘まってしまうし、それに逆らってしまえばひどい目にあいます。

ゆえに、大聖人がさまざまな難を受けているのも、国の支配者が間違った教えにたぶらかされているからであるとされます。

続いて大聖人は一人のためにでも法華経を一句説く人は、如来の使いであるとされ、大聖人ご自身が「釈尊の御使」として南無妙法蓮華経を弘めていることを明かされます。

さらに、法華経とは釈迦の心そのものなので、法華経の文字はそのまま、生身の仏であると確信しなさいとおっしゃられて本抄を締めくくられています。

今回の拝読御文は、妙法を持つ功徳の偉大さを述べられ、その功徳を如意宝珠にたとえられた一文です。

一緒に、祈りとして叶わざるなしの大功徳について学んで参りましょう。

解説

ここで大聖人は「此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う」と明かされております。

なぜなら釈尊も多宝仏も三世十方の諸仏も、真実の法である法華経を行じて成仏したのであり、南無妙法蓮華経の妙法こそ諸仏を成仏させた根源の法だからであります。

続く御文に「たとへば如意宝珠の如し 一珠も百珠も同じき事なり 一珠も無量の宝を雨す 百珠も又無尽の宝あり」とある通り、この広大無辺な妙法の功徳を大聖人は「如意宝珠」に譬えられています。

如意宝珠とは、無量の宝を意のままに取り出すことができる宝の珠のことです。

この如意宝珠が一珠であろうが、百珠であろうが、無量・無尽の宝が得られると述べられているところです。

また別の例えとして、拝読御文の後では、百草をすって作った薬が一丸であっても病気を治せること、さらに大海の一滴であっても、あらゆる川の水を含んでいることを通して、妙法の功徳の大きさを示されています。

南無妙法蓮華経のお題目が如意宝珠であるということは、いかなる人の、どのような願いも、信心をもって祈れば必ず叶うことを意味しています。

家がほしいと思えば家ができ、車が欲しいと思えば車が手に入る。なにひとつとして心のままにならないものはないという宝。それが御本尊です。

どうしても一万円が欲しいと一生懸命に祈っていれば、旦那さんのへそくりが偶然見つかることもあるかもしれません。

見つかってしまった方は、これも信心と心得て、潔く諦めましょう。

叶わない願いなど断じてありません。

妙法を信じ、題目を唱え抜くならば、絶対に行き詰まりはありません。

心に堅い信心があれば、私たちの胸中には如意宝珠が現れるのです。

池田先生はこのように語っています。

「『祈りとして叶わざるなし』の御本尊である。私たちは、この世で最も偉大なものを持っている。意のままに、どんなものでも取り出せる“宝の珠”を持っている。大切なのは、仏力、法力を引き出す、われらの信力、行力である。祈りが叶わないわけがない。何があっても、絶対に負けるわけがない。これが信仰の真髄である。ゆえに、何の心配もいらない。妙法を信じぬき、唱えぬき、実践しぬいていくかぎり、決して行き詰まることはない」

まとめ

私たちの信仰は、信じれば信じた分だけ、大きく結果が帰ってくる、まさに如意宝珠のような信心です。

祈れば必ず叶う。

なぜならば、祈りとは誓願でもあるからです。祈りとは、必ず実現させてみせるという誓いであり、明確な目標への挑戦です。

私自身、金銭的なことで完全に行き詰まった時、今住んでいるマンションを手放さないといけないような、本格的に厳しい日々を耐え抜いた時期があります。

その中で、夫婦で毎日お題目をあげ抜いて、必ずこの苦境を乗り越えてみせる、地区拠点である我が家を守り抜いてみせる、と戦い切ったことで不思議と家は守られ、拠点用にと、我が家にしては立派すぎる仏壇を構えられるような境涯になることができました。

経済的には厳しい状況が完全に打開できたわけではありませんが、今となっては自由自在に学会活動ができていることに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

さあ、いよいよ希望・勝利の年が開幕しました。

私たちは、どこまでも信心第一、唱題根本に、大いに知恵を湧かせて、健康を守りながら、あの友この友に希望の対話を広げていこうではありませんか。

私たち一人一人の勝利の足跡が、新世界の歴史の一歩となることを確信して、自分史上最高の一年を、明るく元気よくスタートさせて参りましょう。

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