相構え相構えて強盛の大信力を致して 南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば 法華経を持つとも無益なり
よくよく心して強盛の大信力を起こして、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、このことである。信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である。
背景と大意
今回学びます生死一大事血脈抄は、最蓮房という弟子に与えられた御書とされています。
最蓮房は元天台宗の僧侶です。
僧侶というだけあって仏法についての見識が深いので、仏法における重大な問題を日蓮大聖人に質問します。
それは、当時の天台宗で「奥義」とされていた「生死一大事血脈」についてでした。
その質問に対して大聖人がお答えになったのが今回の御書です。
ですから、御書2ページ分と短い御書なんですが、内容はとてもとても難しいんです。
ところで、最蓮房の質問、「生死一大事血脈について」ですが、質問の意味がわかりにくいですよね。
分解して説明します。
まず「生死」とは生きる死ぬという生命の働きのこと。
一大事というのは最も大事なこと。
つまり「生死一大事」とは、ごく簡単に言えば、生命にとって、また、成仏にとって最も大事なこと。という意味です。
また「血脈」というのは、仏さまから皆さまに正しく大事なことが伝えられていくことを親から子へ血筋が受け継がれることに例えた表現です。
合わせると「生死一大事血脈」とは、現代の私たちに当てはめれば、「日蓮大聖人の弟子として正しく受け継ぐべき最も大事なこと」という意味になります。
では、その最も大事な事とは何か?
大聖人は答えます。
それは、すべての人を幸福にすることができる「究極の教え」、すなわち「妙法蓮華経」ことである、と。
そしてその「究極の教え」を弟子が正しく受け継いでいくためにはどうしたらいいか、について、大聖人は「3つのポイント」にまとめて教えてくださっています。
まず、一つ目のポイントが、私たちの命にはもともと仏の生命が「具わっている」ということを信じてお題目をあげる、ということです。
二つ目は、絶対に退転しない。信心を保ち続けること。
そして、三つ目が、みんなが団結して心を一つに信心に励むことです。
また、生死一大事血脈とは、「信心」を奮い起こして南無妙法蓮華経と唱えること以外にはない、ともおっしゃっております。
仏法にとって最大の「奥義」とも言える「生死一大事血脈」ですが、限られた一部の人に特別に授けられるものではなく、最も大事なこととは、お題目をあげることでしかない、とおっしゃられたのであります。
「妙法蓮華経」という絶対に幸せになれる法と「信心の血脈」を、すべての民衆に受け継がせたい、すべての人を幸せにしたい、というのが日蓮大聖人の熱い熱い思いなのであります。
簡単にまとめますと、弟子として受け継ぐべき最も大事な事って何ですか? という問いに対して、生死一大事血脈とは、個人としては、自身に具わる仏の生命と南無妙法蓮華経を「生涯信じきること」であり、また組織としては「皆で団結して心ひとつに信心に励むこと」である、と答えたのが、今回の御書なのであります。
解説
この一節は、本抄の末尾の一文であり、難しかった全文のまとめと言える部分です。
そのまとめのとっかかりに「相構え相構えて」とあります。
このように同じ言葉を2回使うのは強調です。この最後のまとめにかける大聖人の意気込みを感じる部分です。
「強盛の大信力を致して 南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」。
「強盛の大信力を致して」とは、まさに生死一大事血脈の根幹であります。この大信力あっての血脈であり、血脈あってこその妙法の功力です。信心に迷いがあってはなりません。
次に、「臨終正念」とは臨終の際に、正しい年慮を持つこと。言い換えれば、死に臨んでも心を乱すことなく妙法を信じる一念を貫き通すことです。
例えば今、私、死ぬとします。心、乱れます。
お金のこと、子どものこと、あとおまけのおまけに嫁のこと。
いろいろ乱れます。
でも、妙法を信じるこの一念だけは絶対に揺るがない。
自分の使命を全うしたと悟ったとき、私は大満足で今世の嫁とお別れして、楽しく来世へと出発することでしょう。
ここでは、今臨終を迎えても私の信仰は揺るがないと言えるようにと、臨終正念を祈念しなさいとの仰せです。
同じ生死一大事血脈抄の中で大聖人はこのように仰せです。
臨終正念の人は臨終の時に千の仏が手をとってくれる。法華経に対して不信のものは、獄卒が迎えに来て手をとると。
ではどうすれば臨終正念の境涯をモノにできるか。
本抄には「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人」と明記されています。
「臨終只今(りんじゅうただいま)」、すなわち今臨終を迎えても悔いがない、という一日一日を積み重ねて信心に励む姿勢。それこそが臨終に際しても信心が乱されないという生き方なのです。
続く御文に「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」とありますので、生死一大事血脈にまつわるさまざまな教えの行き着いたところ、すなわち大聖人の結論はここにあるわけです。
一言で言うと、『臨終只今の強い信心で生涯真剣に題目を唱えぬくこと』。これ以外に血脈なんてどこにもない。ということです。
つづいて、「煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」とあります。
この部分は、煩悩即菩提・生死即涅槃という信仰によって得られる利益を表した御文です。
煩悩と菩提とは真逆の言葉です。生死と涅槃も同じく反対の言葉。
法華経以前の教えでは煩悩を捨てて菩提(覚り)にいたると説いていたそうです。しかし、煩悩を否定して覚りを得るという考えかたは、「生命」や「人間性」そのものを否定する考え方につながりかねません。
しかし、私たちの信仰は同じ煩悩でも、「自分を苦しめる煩悩」というとらえ方を転換して「自分を成長させてくれる活力」へとグレードアップさせることができるのです。
私自身、「あーもっと可愛げのある嫁がよかったなー」という煩悩から、「いいやこの嫁だからこそがんばれる」と覚りを開く戦いを一生懸命している真っ最中であります。
「煩悩」と「菩提」の間に入っている「即」の字は、単に反対の言葉を結ぶ語ではありません。真逆にまでその質を転換させる「力」のことです。そして大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
つまり、この信仰を励むことで、煩悩は”即”菩提となり、生死は”即”涅槃となるということです。
最後に、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」とあります。
これまで生死一大事血脈、すなわち「日蓮大聖人の弟子として正しく受け継ぐべき最も大事なこと」について語ってきましたが、「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念」していなければ、そこには信心の血脈が通っているとは言えず、法華経を信仰していると言っても功徳がないとの仰せです。
厳しい仰せのようですが、よくよく考えれば我々の日々の実践はまさしく大聖人のご指導のままの戦いでしかありません。
信心の血脈が間違っていれば功徳がでないとの仰せですが、この信心で功徳満載の私たちには、まさに信心の血脈があるという現証でありませんか!
また大白蓮華では「信心の血脈」を受け継ぐ上で最も重要なのは、師弟不二の実践です、とあります。
池田先生は次のようにご指導くださっています。
師と弟子が心を合わせれば、生死の問題を解決し、この一生で、三世永遠の自受法楽の境涯を勝ち取ることができるのです。そのための仏法です。したがって『生死一大事の血脈』を成就する肝要とは、どこまでも、師弟不二で民衆救済のために、広宣流布に戦い抜く不惜身命の信心しかありません。
まとめ
私自身、愛する妻とよくできた子どもに囲まれながら、日々幸せな暮らしをしているようですが、内心では、病気のこと、お金のこと、子どもたちの将来のこと、不安を上げればきりがない状況です。
しかし、これらの煩悩は”即”菩提となって、日々の活動の活力になり、エネルギーになり、そして充実となって結局は自分を大きく成長させる糧となってくれています。
これも師匠と共に「強盛の大信力を致して」いる師弟不二の功徳のたまものです。
今日よりは、「臨終只今」の教えのままに、日々、ますますの信心で、ともどもに「相構え相構えて」”打って出る”戦いを悔いなくやりきってまいりましょう。