座談会御書講義

座談会御書「上野殿御返事」講義(2023年6月度)

そもそも、今の時、法華経を信ずる人あり。あるいは火のごとく信ずる人もあり、あるいは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもえたつばかりおもえども、とおざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり。これは、いかなる時も、つねはたいせずとわせ給えば、水のごとく信ぜさせ給えるか。とうとし、とうとし。

さて今の時、法華経を信ずる人がいる。あるいは火のように信ずる人もいて、また水の流れるように信ずる人もいる。聴聞する時は燃え立つように思うけれども、時が経つにつれて、それを捨ててしまう心を起こしてしまう。水の流れるように信ずる人というのは、常に退する心を持たずに信ずる人をいう。あなたは、いかなる時も常に退することなく私を訪ねられるのであるから、水の流れるように信じられているのであろう。尊いことである、尊いことである。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「上野殿御返事」は、日蓮大聖人が57歳の時、身延の地で静岡県に住む青年門下・当時20歳の南条時光に宛てて送られたお手紙です。

南条時光は幼いころに入信しましたが、時光が7歳の時にお父さんが病気で亡くなられ、その後を継いで一家を支える立場にありました。

この時すでに問題の渦中でありました熱原の法難では、幕府からの不当な圧迫に耐えながらメンバーを守り支えた、とされる若き青年リーダーこそが南条時光です。

当時、病気の蔓延や、食糧不足などで社会全体が騒然としている時期でもあり、南条時光自身も、決して豊かな暮らしをしていたわけでありませんでした。

しかし、そのような状況にあっても、なんとか大聖人をお守りしたいと、食料などをかき集めてご供養します。

本抄の冒頭には「そんし・串柿・焼米・栗・タケノコ・酢筒を頂戴した」とあります。そんしというのはどうやら、里芋の一部のことのようです。また、酢筒というのは、お酢を入れるための竹製の筒のことだろうと思われます。

これらは、もしかすると非常時に食べるような保存食にあたるものだったのかも知れません。

誰もが困窮している中、なんとか供養を届けたいという時光の、師匠を思う必死さ、真剣さが伝わってきます。

そんな純粋な信仰を貫く時光に対して、日蓮大聖人も真剣に誠実に向き合われます。

本章では仏に供養することの素晴らしさを述べられ、さらに偉大な南無妙法蓮華経に供養した時光の功徳は計り知れないと仰せになります。

そして、信心を火と水に例えられて、時光の止まることの無い、水のような信心を讃えられています。

今回の拝読箇所にある「火の信心・水の信心」の御文を通して、絶対に退かない信心について学んでまいりましょう。

解説

はじめに「そもそも、今の時、法華経を信ずる人あり」とあります。

釈尊に土の餅を供養した子供が、のちに大王となって生まれるという説話をご存知でしょうか。

実際には食べられない土の餅を仏に供養することでも莫大な功徳があるのに、法華経、すなわち南無妙法蓮華経への供養の功徳は計り知れません。

その仏法の真髄である法華経を信じる人が今はいる、と仰せです。

しかし続く御文に「あるいは火のごとく信ずる人もあり、あるいは水のごとく信ずる人もあり」とあります。

それほど素晴らしい法華経を信じている人が、火の信心の人と、水の信心の人とに分かれると仰せです。

では火の信心とはどんな信心でしょう。

火が燃え上がるような信心は、なんとなく迫力がありそうに思いますが、「聴聞する時はもえたつばかりおもえども、とおざかりぬればすつる心あり」とある通り、「火の信心」とは、先輩や同志の話を聞いた時は感激して、火に薪をくべたように信心が燃え立ちますが、時間がたつと徐々に火が消えてしまうように、信心がなくなってしまうことです。

この火の起こり方は、実は内から湧き上がる力ではなく、外からの刺激で動かされた火であって、それゆえ、薪がなくなると燃え尽きてしまいます。

一方の水の信心についてはどうでしょう。

これに対して、「水の信心」とは、「水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり」とある通り、内から湧き上がる純粋な気持ちで、流れ続ける水のように、持続を貫いていくことです。

一滴の水が、渓流となり、やがて大河となって、ついには大海につながっていくように、決して止まることなく、自身の境涯を広げ続ける。

これが持続の信心であり、水の信心です。

これは、いかなる時も、つねはたいせずとわせ給えば、水のごとく信ぜさせ給えるか。とうとし、とうとし

この「つねはたいせず」との仰せからは、時光の水の信心を賞賛し「とうとし、とうとし」と最大限に褒め讃えられていることを感じます。

別の御書では「火の行者は多いが水の行者は少ない」と仰せになられており、水の信心を貫いている時光のことを大聖人もお喜びになられていたのではないでしょうか。

私たちも青年・時光のように、純真な水の信心であらゆる戦いに勝利してまいりたい。

ただし、水は水でも、一人ぼっちで凍りついてしまっては一歩も動けません。

先輩や同志からたくさん元気と勇気をもらいながら、燃え盛る炎の力も取り込んで、煮えたぎるような水の信心で前進して参ろうではありませんか。

池田先生はかつて、戸田先生の「水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ」との言葉を紹介して、次のように指導されました。

「燃え上がる信心の情熱を持ち、水の流れるように持続する、いわば『熱湯の信心』こそ理想的な姿といえるでしょう。広宣流布は、人類の宿命転換を懸けた大闘争です。広宣流布の大誓願に生き抜く大情熱を、私たちは生涯、堅持し続けてまいりたい。そうでなければ、結局は信心の前進を阻もうとする魔に食い破られてしまうからです」

まとめ

私たちは、常に前進し続ける水のごとく弛まぬ信心を根本に、お互いに火をつけながら、燃え上がる情熱を持って、楽しく愉快に戦ってまいりたい。

そして、信心の前進を阻もうとする魔軍を押し返し、青年・凱歌の年の後半戦も勝利勝利で勝ち飾ってまいりましょう。

-座談会御書講義
-,

© 2024 御書研鑽しよう会