とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ。日蓮生まれし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり
ともかくも法華経に身を任せて信じていきなさい。あなた一人が信じるだけでなく、信心をすすめて、過去の父母をはじめ一切衆生を救っていきなさい。日蓮は、生まれた時から今に至るまで、一日片時も心の安まることはなかった。ただ、この法華経の題目を弘めようと思うばかりである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「上野殿御返事」は、日蓮大聖人が当時、若き青年部であった南条時光に与えられたお手紙です。
時光青年は21歳。あの熱原の法難が本格的に始まろうという時でした。
南条時光は幼いころに入信し、熱原の法難では、幕府からの不当な圧迫に耐えながらメンバーを守り支えた、とされる若き青年リーダーです。
そんな時光にも、いつ命に及ぶ迫害があるかもしれない、と察知していらっしゃったのでしょう。
大聖人はお手紙の冒頭で、これまでに遭われた難について言及され、刀で命を狙われた究極の難について述べられます。
なぜ、大聖人はご自身の命に及ぶ大闘争について語られたのか?
大聖人は、これまでにも、経文に照らして法華経の行者に難が起こることは何度も教えられており、時光自身も、厳しい圧迫や批判をはね返してきていました。
そして、ついに時光自身にも命に及ぶ法難の可能性が出てきたのです。
だからこそ大聖人は、御自身が受けられた大難の意味を記されることで、弟子ならば、師と同じように大難を乗り越えていきなさい、と教えられたのです。
本抄は別名を「刀杖難事(とうじょうなんのこと)」と言います。
刀(とう)とはカタナであり、杖(じょう)とはツエです。
刀の難とは、小松原の法難であり、竜の口の法難です。
杖の難とは、竜の口の法難の際に、法華経第五の巻で顔を三度打たれたことを指します。
経文に予言されている通り、法華経のために、刀で切り付けられたり、杖で叩かれたりという難を受けたのは日蓮大聖人お一人です。
つまり時光の師匠たる大聖人こそが末法の御本仏であることは間違いなく、だから安心して何が起ころうと法華経に身を任せなさいと仰せになります。
時光にとって、すでに刃傷沙汰が起きている熱原の法難の渦中で戦うことは、それこそ死を覚悟しなければならない状況のはずです。
実際、5ヵ月後には熱原の農民信徒20人が逮捕され、鎌倉に連行されて3人が処刑される事態になります。
こうした状況の中、大聖人の慈愛に包まれた時光は「何が起ころうが師匠が自分の戦いを見守ってくださっている」という心強さを原動力に、さらに戦いを起こしていくのであります。
解説
はじめに、「とにかくに」とあります。
「とにかくに」とは「いずれにせよ」という意味ですが、さらにいえば「どんなことがあっても」と拝することができます。
続いて「法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ」とあります。
信心の究極は、法華経に身をまかせ信じきっていくことにあります。
末法において「法華経」とは、南無妙法蓮華経です。
どんなことがあろうとも「南無妙法蓮華経に身をまかせた人生」こそが最強の人生です。
また、この本抄の追伸に、「お腹がすいているときにご飯を思うように、喉が渇いたときに飲み物を思うように」一筋に、素直に法華経を求めなさい、とのご指導があります。
法華経に身をまかせるとは、人から強制されてするものではなく、抑さえようとしても抑えきれないような、自ら求める信心の根本的な姿勢のことなのです。
そして「殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ給いて過去の父母等をすくわせ給へ」とあります。
信心は、自分一人にとどめるものではありません。
あらゆる人々に妙法を伝えて成仏に導くことこそが、法華経に身をまかせた信心の実践です。
「過去の父母等」とあるのは、この世に生を受けたすべての人々は、みな過去をたどれば、父や母、兄弟姉妹であったという考え方にのっとっての仰せです。
要するに、無数の縁ある人々のことを指し、一切衆生そのすべてを救っていけるとの御教示と拝されます。
拝読御文の前半をまとめますと、「どんなことがあっても南無妙法蓮華経に身をまかせて、自分が信じるだけでなく人々にすすめていくことで、全人類を救っていきなさい」という内容です。
まさに命がけで戦っている弟子に対して、「自分の事だけではなく全人類を救うのだ!」と激励されているのです。
なんとスケールの大きい師匠でしょうか。
「日蓮生まれし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし」です。
このような一瞬もたゆむことのないさまを、「未曾暫廃(みぞうざんぱい)」といいます。
読み下しでは「いまだ、かつて、しばらくも、はいせず」と読みます。
大聖人は、血のにじむような思いで全人類を救う戦いを起こし、休む間もなく常に闘争の最前線に立っていらっしゃる。
その心情は、「此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」の一言に込められています。
時光も、法華経のゆえに、南条一族の中でも、悪口を言われ、批判もされてきました。
幕府からの圧迫で不当な重税に苦しめられてもきました。
その時光がいよいよ一大事の時に、大聖人御自身がこれまでどれほどの思いで戦われてきたのかを伝えることで、なにがあっても師匠の精神に連なって不惜身命の信心で戦い抜くべきであると教えて下さっているのです。
池田先生はつづられています。
「仏の戦いは『未曾暫廃』です。間断なき闘争です。『すこしもたゆむ心』あれば魔は便りを得て忍び寄ってくる。『軍やむ事なし』です。そこに苦悩する人がいる限り、不幸の人がある限り、仏の軍勢は戦うのです。一人たりとも、不幸のまま放置しておくことはできない」
まとめ
大聖人の精神に連なり、大聖人の教えに身をまかせ、間断なき戦いで世界広宣流布を現実のものへとおしすすめてきたのが創価学会の歴史です。
私たち一人一人、創価学会員の手によって、「過去の父母等」を救い切っていけるのは御書にてらして間違いありません。
私自身、今こそ迷える友をわが手で救ってみせる、との決意で折伏に挑んでまいります。
さあ、栄光の5・3に向けて、自行化他の信心を実践し、『未曾暫廃』の戦いで、ともどもに師匠・池田先生に勝利の御報告をして参ろうではありませんか。