座談会御書講義

座談会御書「富木尼御前御返事」講義(2021年7月度)

我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき、きさきになりても・なにかせん 天に生まれても・ようしなし、竜女が あとをつぎ摩訶波舎波提比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれし・あらうれし、南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経と唱えさせ給え

私たちは、仏になることは絶対に疑いないと思えば、何の嘆きがあるでしょうか。皇妃になっても、また天上界に生まれても、何になるでしょう。竜女のあとを継ぎ、摩訶波闍波提比丘尼の列に並ぶことができるのです。なんと嬉しいことでしょうか。ただ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、唱えていきなさい。

背景と大意 

今回、みなさんと学んでまいります富木尼御前御返事は、建治2年の3月、身延の地で、富木常忍の奥さんにあたる富木尼御前に与えられた御書です。

富木常忍とは、千葉県の武士とされておりまして、現在でいえば上級公務員のような立場にあった人で、漢文で書かれた御書や、「観心本尊抄」など多くの重書をいただくなど、大聖人門下の中心的な存在の一人でした。

では、その富木常忍の奥さんはどのような人物だったかと言うと、とても信仰も厚く、よく夫を助けたと言われるような女性で、四条金吾から「富木さんは奥さんのことを杖とも柱とも頼みにしている」と言われることもあったようです。

そして富木常忍のお母さん、つまり富木尼御前御の義理のお母さんにもよく尽くしていたそうで、お母さんが亡くなるときにも尼御前が懸命に介護したとされています。

そして、お母さんが亡くなり、遺骨をたずさえて大聖人の元を訪れた富木常忍を通して、大聖人が富木尼御前あてに与えられたのが、今回学んで参ります富木尼御前御返事です。

本抄を一言で言えば、激励のお手本のような、大聖人の慈愛あふれるお手紙です。

まず、大聖人は夫を大聖人の元へ送り出したこと自体をお褒めになります。そして「煙を見れば火を知る。雨を見れば竜を知り、夫を見れば妻を見る。今、富木殿にお会いしていると尼御前をみているように思われる」と、陰の人の力を最大限に讃えられます。

また大聖人は「富木殿から聞きましたよ」と言う風に、尼御前がしゅうとめの介護に尽してきたことを、夫の富木常忍が心から感謝していたと、代弁するように綴られます。富木常忍が直接的に奥さんに感謝を伝えることがなかったとしても、これを読んだ尼御前がどれほど嬉しく思ったことでしょう。

そして、尼御前が病気を抱えていることに言及し、法華経の行者なのだから「どうして病がいえず寿命の延びないことがあろうかと強くおぼしめして、御体を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである」と長寿の指針を述べられます。

この指針には、必ず病魔に勝つと信じ切って、現実には体をしっかりケアし、決して悲観的になってくよくよしない、との具体的な病気との戦い方が示されています。

大聖人の励ましは、さらに続きます。

私たちが仏になることは、絶対に間違いない。今どんなに苦しくとも、最後は必ず勝つと決まっています。そのことを確信すれば、なにをくよくよと嘆く必要がありましょうか、と。

富木尼御前の不安を、こぼれそうになる涙を、必ず拭い去って見せるとの、生命を揺さぶるような大聖人の慈愛がしみじみと伝わってくるお手紙です。

今回の拝読御文は本抄の最後、いかなる境遇にあろうとも、信心で必ず成仏の境涯を開いていけると教えられている箇所です。大聖人のたった一人の門下に対するご慈悲と、どんな時も晴れやかに前進できる大確信をともどもに学んで参りましょう。

解説

まず、「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき」とあります。大聖人はこれまでのお手紙の中で、大聖人の門下は絶対に仏になるのは間違いないとご断言されています。その上で、それを疑いなしと信じることができるのなら、なんの嘆きがあるでしょうかと述べられています。

苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、最後は全て乗り越えることができる。必ず勝つと決まった勝負なら、途中で何があろうと悠々と進んでいけるのです。

次に「きさきになりても・なにかせん 天に生まれても・ようしなし」とあります。たとえお妃となってわがまま放題ができたとしても、せいぜい現世のみのことです。また天上界に生まれたとしても、やはり六道輪廻から逃れることができず、これも成仏の境涯が開けるわけではありません。

そこで「竜女が あとをつぎ摩訶波舎波提比丘尼のれちにつらなるべし」です。竜女とは、法華経の力によって女性として初めて成仏したと共に、その身のままでたちまち成仏した即身成仏の手本でもあります。また摩訶波闍波提比丘尼とは、釈尊の乳母に当たる人であり、最初の女性の門下でもあります。法華経の中で「一切衆生が喜んで見える仏」と敬愛されるであろうと讃えられた女性です。

この竜女のあとを継ぎ、摩訶波闍波提比丘尼の列に並ぶことを大聖人は「あらうれし・あらうれし」と表現されています。

この言葉の響きから、苦悩の先に、ぱーっと雲が晴れて、青空が広がるイメージが湧いてきます。何が起ころうと、朗らかで、明るく、楽しいのです。

さらに大聖人は「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経と唱えさせ給え」と続けています。現実の人生には、苦しいこと辛いことが次々と湧き起こってきます。しかし、喜び勇んで、朗々と、題目を唱え抜いていくならば、どんな時も苦悩を見下し、前進の力がみなぎってくるのです。

この「あらうれし」の境涯のことを「絶対的幸福境涯」と言います。絶対的幸福とは、どこにいても、また何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しいという境涯のこと。生きている以上、苦悩がなくなることはありませんが、苦悩があってもお題目をあげていくならば、必ず「あらうれし」が湧いてくるのです。

少々、子供が言うことを聞かなくても「あらうれし」。コロナ禍で旦那さんの給料が減ったとしても「あらうれし」です。

子供が言うことを聞かないのは成長の証かもしれない。給料が減った経験が、将来の備えの知識をえるきっかけになるかもしれない。

厳しい現実も、信仰への大確信を持ってすれば、全ての不安は消えて、意味のあることに変革していくことできるのです。

池田先生はつづっています。

「皆が仏になるための信心である。全てに意味がある。苦しい試練も、大成長への時と定めれば、勇気が湧く。本来持っている仏の力を確信すれば、不安は消え去る。友が心軽く前へ進めるように温かく励まし続けることだ。友を思う祈りは、必ず伝わる。心を通わせながら、共々に未来へ希望を見いだしていこう。わが生命の息吹で勇気と歓喜の波動を広げるのだ」

まとめ

まさに私たちの信仰は、全ての人が幸福になるための信仰です。現実の苦しみ、現実の課題に立ち向かい、乗り越えていくことができる。そのための信心です。

生きていれば、時には涙が止まらないこともあるかもしれません。しかし、どのようなことがあっても同志で励まし合って、「あらうれし」と笑い飛ばしながら、悠々と、そして朗らかに前進して参りましょう。

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