座談会御書講義

座談会御書「辦殿尼御前御書」講義(2019年7月度)

第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし

第六天の魔法は、十種の魔の軍勢を用いて戦を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、凡夫と聖人が共に住んでいるこの娑婆世界を「とられまい」「奪おう」と争っている。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身に当たって、大きな戦を起こして、二十数年になる。その間、日蓮は一度も退く心はない。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります辦殿尼御前御書は、佐渡の一谷で著されたお手紙です。この御書の末尾には「辦殿(べんどの)から、鎌倉に住む尼御前伝えてほしい」という旨の追伸があります。その尼御前については在家で、夫に先立たれた女性と考えられています。

また御文には、尼御前が“文字を一字も読めない”という意味の記述があります。 当時の多くの民衆は文字が読めず、尼御前もそうした一人だったようです。しかし、尼御前はおそらくは大聖人から直接説法を聞いていて、当時の日蓮門下に対する弾圧にも屈せず、信仰を貫いていたものと思われます。

本抄は、この尼御前に辦殿が読み聞かせるためにしたためられたお手紙です。その文章は耳で聞いてわかるように、また強く心に響くように、命に刻めるようにと、大聖人が心配りされたものです。辦殿が声に出して御文を拝するのを聞いて、尼御前は大聖人から直接指導をうかがっているような思いだったに違いありません。

まず、本抄では名の有る武将を挙げて、どれほどの武将であっても数年の戦いで敗れてしまうという史実をのべられます。その一方で、第六天の魔王と法華経の行者との戦いの舞台は、まさしくこの現世であり、大聖人は立宗から20年余りのあいだ戦い続けているとの仰せです。そして、その熾烈な戦いにあって、「日蓮一度もしりぞく心なし」と、戦いに挑む覚悟をご教示くださっています。

しかし、師匠である大聖人が「一度も退く心なし」であるにも関わらず、弟子のほとんどは退転してしまうか、退転の心がある状況でした。門下に対する弾圧は「千人のうち999人が退転してしまった」と言われるほどの厳しさではありましたが、当時退転した者の中には、学問のある出家の弟子も、経済的な基盤のある人物もいました。本来なら、同志の模範となり、皆を守る側に立つべき人たちですが、結局臆病の心を起こし、自分の地位や財産を守るために退転してしまいました。

これに対して、本抄をいただいた尼御前は、頼るべき夫も失い、十分な教育を受けられず一文字も読めなかった女性です。だからこそ、そんななかにあって勇敢に信心を貫き通している尼御前のことを大聖人は最大限に賞賛されるのです。

そして結びに、尼御前にとって大事な使用人をわざわざ大聖人の元に使わしたことを称えられ、心からの感謝をのべられます。

大聖人ご自身が佐渡に流罪中の身でありながら、一女性門下の健気な様子をわずかに聞き及んで、矢も立てもたまらず激励の筆をとった御慈悲が、どれほど尼御前にとって暖かく、力強く感じられたことか、想像に難くありません。

そして、大聖人が本抄でお示しくださっている「仏と魔との間断なき戦い」を現代において実践し、現実世界を仏国土に変革しようと戦っているのは創価学会にほかなりません。私たちも本抄をしっかり学んで、大聖人が立宗から始められた魔軍との戦いを受け継いでまいりましょう。

解説

「第六天の魔王」とは、成仏を妨げる魔の働きの根源です。「生死海」とは、生死の苦しみに覆われた現実世界を、大海に譬えた表現です。「同居穢土」とは、一言で言えば現実世界のことです。この生死の苦悩が渦巻く現実世界こそが、「第六天の魔王」と「法華経の行者」の長く激しい闘争の舞台となっているのです。

そこで法華経の行者が娑婆世界を仏国土に変革しようと立ち上がると、第六天の魔王は阻止しようとして、魔軍を率いて襲いかかってきます。 「十軍のいくさををこして」、というのは人間生命に潜む煩悩を10種類に分類したものであり、そのすべてが自身の心に起こる魔の働きです。それは自身の持つ弱さや迷いがあらわれたものといってもよいでしょう。

もちろん、この十の魔軍にしても、魔王にしても、固有の存在があるわけではありません。十軍の中には、もしかすると、「今月お金足りない魔」や「子どもがわがまますぎる魔」や「嫁さんが怖い魔」とかがいそうな気がしますが、実はそうではなくて、十軍のすべてが、人間の心に具わった生命の働きなのです。

すなわち、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、自分の内なる魔性、魔軍との戦いであり、わが生命に潜む魔を克服していくことこそ、成仏の方途なのです。

しかし、もともと生命に備わっている「魔」の働きに勝つなんて、はたしてそんなことができるのでしょうか。本抄で大聖人は「とられじ・うばはんと・あらそう」と仰せです。この表現から、まさに、善と悪のどちらの勢力も拮抗している様子が伝わってきます。 善が勢力を増せば、悪もまた、それを阻もうと力を増します。

では、この拮抗を破る「十軍」に打ち勝つ最高の武器とは何でしょうか。大聖人は「信心の利剣」であると仰せです。妙法を不退の心で信じぬき、魔を魔と見破れば、敵が「十軍」といえども恐れることはないのです。

本抄では続けて、「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と仰せです。「をこして」とは、大聖人が「法華経の行者」として「第六天の魔王」との大闘争を開始された立宗宣言を指します。「二十余年」とは、建長5年4月28日の立宗から、本抄御執筆までのこと。その間、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして竜の口の法難・佐渡流罪と、命に及ぶ大難が連続して起こっています。しかし「日蓮一度も退く心なし」です。

この時、難によって多くの門下が退転してしまいましたが、大聖人は本抄で自らの覚悟をお示しになることで、弟子たちに生涯不退転の心で戦い抜く姿勢を教えられているのです。

退転は、幸福の軌道を自ら踏み外すことです。大聖人は、退転の主たる原因を「臆病」と鋭く見抜かれていました。 ゆえに大聖人は「すこしも・をづる心なかれ」、「すこしも・をそるる心なかれ」、「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と、さまざま御書で幾度も「臆病」を戒め、“一人も退転させてなるものか”と、ご指導を重ねてくださっているのです。

進まざるは退転です。大切なことは、唱題を根本としながら、自身の信心を後退させようとする魔の働きや臆病に決して惑わされず、信心の実践を月々日々に継続していくことではないでしょうか。日々の唱題、一人の激励、一本の電話が、実は仏と魔との真剣勝負の舞台なのです。この戦いをやめないことが、大聖人が起こされた大闘争に連なることになるのです。

池田先生はつづられています。

「御本仏が『一度もしりぞく心なし』と戦い抜かれた、この広宣の大道に誇り高く連なっているのが、創価の勇気ある信心である。この信心から、我らは常に出発する。信心で団結し、信心で戦うのだ」

まとめ

さあ、いよいよ決戦の月、7月です。師弟の月であり、またこれまでの戦いの総決算でもあります。

泣いても笑っても、今の勝負を戦えるのは今しかありません。

そして今までしてこなかった戦い起こせば、今までに現れなかった魔も競い起こってきます。

私たちは不退の心で、一切の臆病を排し、信心根本に勇気の対話を広げて、自分史上最高の戦いで師匠に勝利のご報告を届けてまいりましょう。

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