法華経の信心を・とをし給え・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ
法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、途中で休んでしまえば、火を得ることができない。強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾・四条金吾と、鎌倉中の上下万人をはじめとして、日本国のすべての人の口に褒め称えられていきなさい。
背景と大意
今回、皆さんと学んでまいります御書は「四条金吾殿御返事」、またの名を「煩悩即菩提御書」と申します。
四条金吾殿御返事という名前のとおり、在家信徒の中心的存在であった四条金吾に宛てられた数あるお手紙のうちの一つであります。
御書全集では、見開き1ページと「ちょっと」という比較的短い御書ですが、前半部分は非常に難解で、読み進めるのが大変です。
「開目抄」という最大級に重要な御書をすでに全信徒に宛てて書かれたあとなので、その一部をかいつまんだような文章がつづられておりまして、なかなか理解できません。
その部分に、「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」について書かれているために、「煩悩即菩提御書」と呼ばれているわけです。
日蓮大聖人は、首をきられそうになるという竜の口の法難、生きながらえることすら難しいと思われるような僻地だった佐渡への流罪と、命に及ぶ究極の難にあわれていましたが、大聖人の弟子たちもさまざまな迫害を受けていました。
それも投獄に所領没収、追放などという、大変厳しい弾圧だったそうです。
これらの迫害が我が身に及ぶことを恐れた門下は次々と退転し、大聖人を裏切っていきました。
しかし、四条金吾は日蓮大聖人が首をはねられそうになったときでさえ自分も腹を切る覚悟でおともし、江間氏という主君に仕える身でありながら、流罪地である佐渡まではるばる大聖人をたずねていくなど、純真に信心を貫きとおしていました。
この御書は佐渡に流罪中だった大聖人が、佐渡まで遠路はるばるたずねてくれた四条金吾へのお礼の意味もこめて送ったものだといわれています。
大聖人は御書の冒頭、そんな四条金吾の振る舞いを賛嘆するとともに、ご自身がとんでもない目にあってきたことについては「悔しいとは思わない」いや、むしろ「これほどすばらしい人生はない」とおっしゃいます。
では、大聖人が、そこまでして命がけで広めてきたものとは何だったか。
それはすなわち、全ての人を幸せにすることができる唯一にして最強最高の法、南無妙法蓮華経であります。
そして、この教えがいかにすごいかということが、このあと大変難しく書いてあるわけです。
つづいて、大聖人門下がいろいろと迫害を受けているのにもかかわらず、この南無妙法蓮華経を信じ続けてくれる四条金吾という男は、まさに経文に予言されているところの法華経の行者を守る人そのものじゃないか、と褒めちぎります。
そして、そうやって守ってくれる人が出現したということは、経文にてらして考えれば、この信心は本物に違いないんだ、という大確信を述べられます。
最後に、信心を持続していくことの大切さをのべられて、また、四条金吾の戦いを影で支えてきた奥さんとは、さらに力を合わせて信心にはげみなさいとのご指導で本抄を結ばれています。
要するに、大胆に要約すると、大聖人が命がけで広めているこの信心は本物だ。
それを命がけで守ってくれている四条金吾も本物だ。
だからこそ、この信心を貫き通して、さすが南無妙法蓮華経をやってる人は本物だなと、「みんなに」言われるようにがんばりなさい。という御書なのであります。
解説
まず始めに「法華経の信心をとおしたまえ」とあります。
「とおす」とは、つまり「やりとおす、つらぬきとおす」という意味であり、「持続の信心」のことです。
大聖人はそのことを道具を使って火を起こす作業にたとえて、「火をきるに、やすみぬれば火をえず」とおっしゃっています。
火を起こすために木を擦り合わせていても、途中で手を休めてしまっては、火は燃えない。
「火をだす」と決めたなら、火が出るまで、勢いよく作業をし続けなければなりません。
私たちの信仰も同じです。
途中で手を抜き、あきらめてしまえば、いつまでたっても結果がでない。
だから、「信心は最後の最後までやり通すものだ」ということを大聖人は教えてくださっているのです。
つぎに、「強盛の大信力をいだして」と呼びかけられています。
信力とは、仏法を信じる心の強さのことです。
強く信じることで、働きが強くなるのが私たちが信仰している仏法です。
例えば、同じつりがねでも、弱く叩けば弱く響き、強く叩けば強く響くようなものです。
どうせ同じ信心をするのならば、大確信をもって、絶大な功徳をいただいたほうがいいに決まっています。
そして大聖人は「法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」と励まされています。
「法華宗の四条金吾」とは、「日蓮大聖人門下の四条金吾」という意味です。
当時、大聖人門下への激しい弾圧のさなかであることを再度確認しておきます。
「日蓮大聖人の門下」であることを理由に弾圧されているところ、むしろ「大聖人の門下はすごいな」と言われるようになりなさいというご指導なのです。
正しい信仰は、正しい人間のありようとなって、現実世界に現れなければなりません。
信仰とは生き方の根本ですから、必ず、信仰が生活にあらわれる。
信仰は立派なのに、人間としては魅力がない、ということはありえないのです。
それを「信心即生活」「仏法即社会」と言います。
現実社会の中で、周囲からの信頼を勝ち取ってこそ、正しい仏法の証明となるのです。
「創価学会の人間って、やっぱりすごいな!」と言われるような、誰の目にも明らかな勝利の実証を打ち立てていこうではありませんか。
池田先生は、人間革命第22巻「命宝」の章で、このようにつづられています。
「常に、どこにあっても、大聖人の弟子と名乗り、胸を張れるか。現代で言えば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、賞賛を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ」
まとめ
さあ、私たちも「さすが創価学会」「さすが池田先生が育て上げた人材だ」と全世界の人々の口にうたわれる戦いを今こそ「持続の信心」でつらぬいて抜いてまいりましょう。
そして一丸となって、全メンバーが広宣流布の歴史の主体者となれるよう、日々対話を重ね、信頼の輪を強固に広げていけるよう、全力で戦ってまいろうではありませんか。