座談会御書講義

座談会御書「一生成仏抄」講義(2022年2月度)

衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。

衆生といっても仏といっても、また同様なのである(二つの隔てがあるわけではない)。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。今の(私たち凡夫の)無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の悟りの智慧の明鏡となるのである。深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠ることなく自身の命を磨くべきである。では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「一生成仏抄」は、富木常忍に宛てて認められたお手紙とされていますが、詳しいことはわかっていません。

富木常忍は、非常に難しい漢文で書かれた御書や、「観心本尊抄」などの多くの重書をいただくなど、四条金吾と並び称されるような中心的門下でした。

そんな中心的門下の一人である富木常忍に与えられたとされているだけあって、その内容は深淵で難しく、簡単に読んで理解することはできません。

あえて簡単にお伝えさせていただくとするならば、法華経を信じて自分の生命をお題目で磨いていくならば「一生成仏」が可能であるという御書です。

最も重要なのは第号にあります「一生成仏」というキーワードです。

一生成仏とは凡夫、つまり普通の人が、この身のまま一生のうちに成仏することです。

大聖人は、南無妙法蓮華経を信じ抜いてお題目をあげることで一生成仏ができると仰せです。

そして、自身の生命の外に法があると思うなら一生成仏はできないとも仰せです。

最後に、自身の生命が妙法の当体であることを深く信じ、そのことを疑ってはならない、と述べられて本抄を結ばれています。

まとめると、私たちが目指すべき一生成仏の要諦とは、南無妙法蓮華経のお題目をあげることであり、その南無妙法蓮華経を自身の心の中に観て信じ切ることです。

今回の拝読御文は、お題目をあげることについて具体的な実践の方法を日蓮大聖人が語っている重要な箇所です。

一生成仏に至るためのお題目の実践について一緒に学んで参りましょう。

解説

始めに、「衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」とあります。

大聖人は、ここで迷いの元である固定観念を叩き壊します。

凡夫、つまり普通の人と仏とはかけ離れた存在であるという固定観念です。

この御文の直前では、「浄土と穢土といっても隔たりがあるわけではない」と仰せになっています。

これはつまり、天国や地獄といっても心の置き所一つで、天国も地獄になり、地獄も天国と見ることができるという意味です。

それは凡夫と仏においても同じです。

凡夫から仏に変身して、姿形が変わってしまうわけではなく、迷っているか悟っているかだけの差でしかないとの仰せです。

続く御文に「譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし」とある通り、迷いにとらわれた凡夫の心は「磨かざる鏡」であり、凡夫の迷いの生命も、磨けば仏の悟りの生命となる、と仰っています。

ここで大事なことは、曇った鏡と、磨いて輝くようになった鏡とは、別のものではないということです。

成仏とは、曇っている鏡を捨てて、他のキレイな鏡と取り替えることではありません。

曇った鏡を磨くことでキレイな鏡にすることができる。

だから凡夫の生命を捨てて仏の生命を手に入れるという考え方ではないのです。

今は2千円しか入ってない普通の財布を、財布が悪いと言って捨てて、ブランド物の財布にしたって、中身が変わるわけではありません。

私たちの生命は、磨けば光ると言う無限の可能性を秘めています。

しかし、磨くと言っても、どのようにすれば磨けるのでしょうか?

古い財布をハンカチで拭けば、中身の2千円が2万円になる、というわけではありません。

拝読御文の最後に、「深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」とあります。

ここで大事なのは「深く信心を発して」という部分、さらに「日夜朝暮にまた懈らず」という部分です。

信心は一切の疑いを排することが最重要です。

そして、その信心を毎日、朝晩、怠ることなく持続し続けること。

これが具体的な生命を磨く時のやり方です。

では、磨くとは何をすることか?

ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」です。

つまり、お題目をあげる以外に、その方法はないということです。

疑うことなく、毎朝、毎晩、怠ることなく、お題目を上げる。

そうすれば、たとえ古い財布の中身は増えずとも、自由自在に必要な時に必要なものが手に入るようになっていく。

そこがこの信心の強烈にすごいところです。

昨今の厳しい社会情勢の中、頭でいくら考えても打開できないことはあるはずです。

しかし、必ず道を開くと決めて決意を込めた真剣なお題目を上げ抜けば、仏の生命を顕現していけるのが私たちの信仰です。

あらゆる問題を必ず乗り越えてみせる、と腹を括るれるかどうか。

そこが、迷いの生命となるか悟りの生命となるかの隔たりなのです。

池田先生はつづられています。

「仏法の法理に照らして、やがて、私たちが幸福になることは絶対に間違いない。したがって、何があっても、決して御本尊を疑うことなく、最後まで、無疑曰信の信心を貫いてください。不信というのは、生命の根本的な迷いであり、元品の無明です。それは不安を呼び、絶望へと自身を追い込んでいきます。その自分の心との戦いが信心です。その迷いの心に打ち勝つ力が題目なんです。ゆえに、題目第一の人こそが、真の勇者なんです」

まとめ

大変に厳しい社会環境ではありますが、私たちの境涯革命の闘争とは、どこまでいっても内なる生命の変革です。

生命を変革すれば、地獄は天国に変わり、迷いの生命は悟りの生命になる。

その生命の変革の方途は、御書に照らして唱題行以外にありません。

私たちは、何があっても御本尊を信じ抜き、現状打破を確信する朝晩の祈りで、自他共の幸福を築く対話を日々拡大して参りましょう。

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