座談会御書講義

座談会御書「四条金吾殿御返事」講義(2021年9月度)

法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや

法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、途中で休んでしまったなら、火を得ることはできない。強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の上下万人をはじめとして、日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。人は悪名でさえ流すものだ。まして、善き名を流すのは当然である。ましてや、法華経ゆえの名は言うまでもない。

背景と大意

今回、皆さんと学んでまいります御書は「四条金吾殿御返事」です。

在家信徒の中心的存在であった四条金吾に宛てられたお手紙のうちの一つであり、またの名を「煩悩即菩提御書」と申します。

四条金吾は日蓮大聖人が竜の口の法難で首をはねられそうになったときも、自らも腹を切る覚悟でおともし、江間氏という主君に仕える身でありながら、流罪地である佐渡まではるばる大聖人をたずねていくなど、純真に信心を貫きとおしていました。

この御書は、佐渡に流罪中だった大聖人が、佐渡まで遠路はるばるたずねてくれた四条金吾が鎌倉に帰ったあと、その訪問のお礼の意味をこめて送られたものであるとされています。

実は、この煩悩即菩提御書は、見開き1ページという比較的短い御書なんですが、その内容は実に重要なものなんです。

日蓮大聖人は、首をきられそうになるという竜の口の法難、生きながらえることすら難しいとされる佐渡への流罪と、当時まさに命に及ぶ究極の難にあわれている最中でした。

大聖人の弟子たちもさまざまな迫害を受け、投獄に所領没収、追放などという大変厳しい弾圧がありました。

これらの迫害が我が身に及ぶことを恐れた門下は次々と退転し、結果的には大聖人を裏切ってしまいました。

そのような、ほとんどの弟子が退転してしまう状況の中で、弟子の勝利を願って、末法の御本仏としてのご確信を認められたのが、最も重要な御書のうちの一つである「開目抄」です。

煩悩即菩提御書は、この「開目抄」を書かれたあとのお手紙なので、前半部分は「開目抄」の重要な法門の要点を簡潔に説明される内容となっています。

その部分に、「煩悩即菩提」について書かれているために、「煩悩即菩提御書」との別名がついています。

煩悩即菩提とは、煩悩、すなわち九界の生命に必然的に具って起こってくる悩みが、妙法に縁することによって、即、菩提となるということです。

菩提とは、仏の智慧のこと。

九界のあらゆること、すなわち諸法は、ことごとく実相、すなわち妙法の当体であるというのが「諸法実相」の法門です。

要するに、自他共のお題目をあげるならば、全人類はその姿のまま仏になることができ、悩みはそのまま幸せに転じることができる、というのが煩悩即菩提です。

大聖人は御自身に競い起こった大難については「悔しいとは思わない」「これほどすばらしい果報はない」と御断言なさっています。

南無妙法蓮華経のお題目は「七字」ですので、ある一面では「狭い」法門に思えるかもしれませんが、実は天台や伝教の法門より深い。

七字のお題目は広大無辺な仏法の要の中の要だからです。

大聖人は、このお題目を弘めることの尊き使命を教えられたうえで、四条金吾にさらに持続の信心をと強調されています。

そして「信心即生活」の実践によって、社会の中で、信心根本に勝利の実証を示し、人々から讃嘆されることを目指すようにご指導くださっています。

今回拝読させていただく御文は、本抄の最後の方に当たる、「学会員として永遠の指針」となる重要な箇所ですので、しっかりと学んで参りましょう。

解説

始めに「法華経の信心を・とをし給へ」とあります。

「とをす」とは、つまり「やりとおす、つらぬきとおす」という意味であり、「持続の信心」のことです。

大聖人はそのことを道具を使って火を起こす作業にたとえて、「火をきるに・やすみぬれば火をえず」とおっしゃっています。

火を起こすために木を擦り合わせていても、途中で手を休めてしまっては、火は燃えない。

「火をだす」と決めたなら、火が出るまで、勢いよく作業をし続けなければなりません。

ちょっと作業して、ちょっと休んでをいくら繰り返しても火を得ることはできないのです。

私たちの信仰も同じです。

途中で手を抜き、あきらめてしまえば、いつまでたっても結果がでない。

「信心は最後の最後までやり通すものだ」ということを大聖人は教えてくださっているのです。

つぎに、「強盛の大信力をいだして」と呼びかけられています。

信力とは、仏法を信じる心の強さのことです。

強く信じることで、働きが強くなるのが私たちが信仰している仏法です。

例えば、勤行の時に使うリンでも、弱く叩けば弱く響き、強く叩けば強く響く。

どうせ同じ信心をするのならば、大確信をもって、絶大な功徳をいただきたい。

そして「法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」と励まされています。

「法華宗の四条金吾」とは、「日蓮大聖人門下の四条金吾」という意味です。

この「法華宗の四条金吾」との御指導は、学会員にとってまさに永遠の指標です。

これまで創価の諸先輩方は、この御金言を心肝に染めて信頼を勝ち取ってきたのです。

これ以上の尊き人生はありません。

しかし当時は、大聖人やその門下への激しい弾圧のさなかでありました。

「日蓮大聖人の門下」であることを理由に弾圧されるという状況にあって、むしろ「大聖人の門下はすごいな」と言われるようになりなさいという強い呼びかけです。

信仰は、必ずその生活の上に意味をあらわします。

それが信心即生活です。

信仰は立派なのに、人間としては魅力がない、ということはありえません。

仏法は勝負です。

現実社会の中で、周囲からの信頼を勝ち取ってこそ、正しい仏法の証明となるのです。

「創価学会の人って、やっぱりすごいな!何か違うな!」と言われるような、誰の目にも明らかな実証を示していきたい。

続く御文に「あしき名さへ流す況やよき名をや」とあります。

悪評は広まるのは早いが、良い評判が広まるのはもっと早い、という意味です。

加えて、さらに「何に況や法華経ゆへの名をや」との仰せです。

例え目に見えなくても「法華経ゆへの名」は深く広く浸透します。

池田先生の世界公布の奮闘によって、創価学会の誉れ高き「法華経ゆへの名」は世界中に広がり、世界のあらゆる場所に「法華宗の四条金吾」が誕生する時代になりました。

私たちも、創価学会員として胸を張り、栄光の「法華経ゆへの名」を地域社会に広げていこうではありませんか。

池田先生はつづられています。

「職場や地域で信頼されてこそ、真の『信心即生活』『仏法即社会』である。信心を根本に真心と智慧を尽くし、どこまでも誠実な『人の振る舞い』に徹していくいことだ。激動の社会、変化の時代である。だからこそ『強盛の大信力』を奮い起こし、わが使命の舞台で、断じて勝利の実証を打ち立てよう!『うたわれ給へ』これが、広宣流布の希望の劇だ」

まとめ

「さすが学会の方は違うね」そう「地域の人の口にうたわれる」戦いこそが、創価の名を知らしめ、池田先生を宣揚し、地域公布の輪を広げることにつながります。

現実社会で実証を示す、といっても、結局は、どこまでも誠実な『人の振る舞い』に徹していくいことなんです。

私たちは、この激動の時代にあって、自分の今いる場所を使命の舞台ととらえ、最大限に健康に留意しながら、現実社会で勝利の実証を示してまいろうではありませんか。

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