座談会御書講義

座談会御書「檀越某御返事」講義(2023年7月度)

さておわするこそ、法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこ、あなかしこ。御みやづかいを法華経とおぼしめせ。「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」とは、これなり。

そのようにおられることこそが、法華経を昼夜にわたり修行されていることになるのです。くれぐれもよく心得なさい。日々の出仕を法華経の修行であると思いなさい。「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、全て実相と相反することはない」と説かれているのは、このことです。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「檀越某御返事」は、弘安元年に身延の地で著されたお手紙です。

題号にあります「檀越某」について少し説明します。

日蓮大聖人の在家のお弟子さんのことを、檀那という言い方をするのを聞いたことがあると思うのですが、檀越とは、檀那と同じ意味で、まさに僧侶に施しをする信者のことを指します。

「檀越某」というように「某」がついておりまして、具体的に誰のことを指すのか、詳細はわかっていません。

ただし、本抄の内容から推察するに、おそらく主君に使える立場の武士であっただろうとされています。

大聖人が佐渡流罪を赦されて、身延に入られて5年目のこと。

各地で弘教が広がる一方で、弟子に対する迫害が始まっている状況でもありました。

そうしたなかで、幕府の考えを知ることができるような立場だったのか、権力の動きをいち早くつかんだこの檀越が、大聖人に、伊豆流罪、佐渡流罪に続く、三度目の流罪の危機が迫っているという情報をお知らせしたようです。

それに対する御返事が本抄です。

大聖人はその3度目の流罪について、57歳という当時としてはご高齢でありましたが、もしその流罪が現実になるなら「百千万億倍のさいわい」であるとされ、むしろその流罪が起こることを願っているように述べられます。

その一方で、大聖人の弟子であることで、危険な目に遭うかもしれない立場にあるこの檀越に対して、真面目に武士として主君に仕えることが、信心なのであると、現実社会での勝利を願われて、本抄を結ばれています。

仏法即社会の信心の要諦を共に学んでまいりましょう。

解説

はじめに「さておわするこそ、法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこ、あなかしこ」とあります。

さておわするこそ」が意味しているものは何でしょうか。

この檀越が、権力者よる大聖人を弾圧しよう、3度目の流罪にしようという動きを知ることができたのは、おそらく真面目に仕事に精を出し、誠実であることを評価されていたからだろうと思われます。

そのようにおられることこそが、「法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ」とある通り、24時間、常に、法華経を修業していることと同じであると仰せです。

「あなかしこ、あなかしこ」とあるのは、この檀越に対して敬意を示したお言葉です。

つまり、仕事に精を出して周りから信頼されている姿がとても尊いことであると、称賛されているのです。

次に「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」とあるのは、普段からの仕事や生活こそが、法華経の修行なのであるとのご教示です。

仏道修行とは、部屋にこもってただただお題目を唱えることではありません。

仏法とは、即社会であり、即生活です。

即というのは、信心のことであり、信心があれば、仕事で成果を出すことも、生活を日々やり抜いていくことも、妙法になるのです。

大聖人は、そのことの証明として、天台大師の言葉を引用されて「『一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず』とは、これなり」と仰せです。

大聖人の仏法が掲げている「人間主義」の理念と、政治や経済などが本来目指すべき目的観は、一致しているべきであるという教えです。

なぜなら、政治や経済といっても、それは全て「人間のため」のものでなければならない。

人間の幸福こそ、あらゆる社会の営みの究極の目的だからです。

また仏法は勝負です。

一番、真面目に、真剣に信心をし抜いた人が、必ず勝つ。

社会との関わりの中で、人として勝利していくことこそが、信心なのです。

だから、生活の場こそが仏道修行の場であり、そこで勝利することこそが、信心の勝利となるのです。

池田先生はつづられています。

「妙法の信心は、困難に立ち向かう勇気や、智慧や忍耐力をもたらす本源の力です。ゆえに、信心を根本とした私たちの行動は、全て妙法の光明に照らされ、希望と幸福の方向へと価値創造していけるのです。どんな職場、どんな立場であっても、自分らしく、人のため、社会のために行動していく。そして、『あの人はさわやかだ』『あの人は信頼できる』『あの人は頼りになる』と賞讃されていく。これでこそ、『信心即生活』『仏法即社会』の姿です」

まとめ

私たちの宗教は、決して現実から逃げ出す場所ではありません。

現実社会と切り離されたところに、本当の仏法も信心もないのです。

もちろん、あまりの打ち出しの多さにへこたれることもありますが、仏法の理想を現実社会に花開かせることこそが、信心です。

地域で、社会で、信頼される自分かどうか。

日々、十二時、御みやづかいを法華経の修行であると信じ切って、唱題根本に今日も明日も戦ってまいりましょう。

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