苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給え。
苦を苦と覚り、楽を楽と開き、苦も楽もともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱え抜いていきなさい。これこそ自受法楽ではないか。ますます強盛な信力を尽くして生きなさい。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、日蓮大聖人が55歳の時、中心的門下の四条金吾さんに送られたお手紙です。
本抄は別名を「衆生所遊楽御書」といいます。
「衆生所遊楽」というのは、いつも私たちが行なっています勤行の中にも出てくる、寿量品の一節です。
言葉の意味としては、衆生、つまり、すべての人間が、遊楽、遊び楽しむところ、という意味ですが、つまり、私たちが住んでいるこの世界こそが、すべての民衆が遊び楽しむところであるという意味です。
ところが、お手紙をいただいた四条金吾は、当時の信徒の中心人物でしたが、遊び楽しむどころか、大変厳しい目に遭っていました。
武士にとって主君は絶対的な存在なんですが、その主君に対して、大聖人の仏法の正しさを説いたことをきっかけに主君から遠ざけられるようになり、金吾に対して妬みを持っていた同僚からはデマを流され、命さえ狙われるような危機にありました。
大聖人は四条金吾に対して、厳しい状況ではあるけれど、どんな偉い人や賢い人でも、人生において苦労しないことはないのだから、いい時も悪い時もどんな状況でも南無妙法蓮華経のお題目をあげて乗り越えていくんですよと、信心で勝ち超えるように、励まされていきます。
いかなる悩みや苦しみをも乗り越えて、人生を悠々と楽しんでいくことができるのが、私たちの信仰の凄さです。
どんな時もお題目を絶やさずお題目根本に歩んでいく人生の素晴らしさを共に学んでまいりましょう。
解説
はじめに「苦をば苦とさとり」とあります。
誰一人として、苦しみがない人生はありません。
生きることには苦しみや悲しみや悩みがついてきます。
「さとり」とあるとおり、そのことを理解して受け入れていく。
悩みはあっても当然だよな、という悩みを見下ろすような境涯です。
この世界は「衆生所遊楽」であり、すべての人間が遊び楽しむところなんですが、ただ面白おかしいだけの世界ではないんですね。
真実の遊楽とは、悩みや苦しみをすべて勝ち越えて、楽しみに変えていける、厳しい現実と対決しながら、すべて乗り越えていけることなんです。
「苦をば苦とさとり」とは、「衆生所遊楽」だからと言って現実から逃避することではなく、むしろ悩みに立ち向かっていく、挑戦の心なのです。
次に「楽をば楽とひらき」とあります。
楽しい時や嬉しいときには、これは信心の功徳なのだと「開いて」、感謝していける自分になれば、次々と歓喜が舞い込んでくるのです。
続く御文に「苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え」とある通り、どんな状況であっても、その時々で、信心の姿勢が変わってしまうのではなく、絶やさずお題目を唱えていくことの重要性をご教示されているものと拝されます。
苦しい時は挑戦のお題目、楽しいときにも感謝のお題目です。
「うちとなえいさせ給え」の「い」という文字には、持続の意味が込められています。
どんな時も、持続的にお題目をあげなさいとの仰せです。
「これあに自受法楽にあらずや」とは、それこそ自受法楽である、という意味です。
自受法楽というのは「みずからほうらくをうく」と読み下し、自分で法楽を受け取る、という解釈になります。
では法楽とは何か。
簡単に言えば、信心の功徳を受け取ることであり、つまり最高の幸福のことです。
要するに、常に持続してお題目を上げること自体が、最高の功徳であるとの仰せです。
では最高の功徳とはどのような状態か。
私たちの目から見ると、この世は苦悩に満ちて、日々は辛いことだらけ。
さながら地獄です。
しかし、お題目をあげ抜いた人の目には、同じ世界であるにも関わらず、「衆生所遊楽」、遊び楽しむところと見えるのです。
日蓮大聖人は、地獄や天国と言っても、別々に存在するわけではなく、心の善悪によって決まる」と仰せです。
その心を獲得することが覚りであり、最高の幸福であり、法楽なんです。
これこそ絶対的幸福境涯と言っていいでしょう。
苦しい時も楽しい時も、思い合わせて、持続してお題目をあげ続けることで、法楽を自ら受け、自分のいるところを遊び楽しむところにすることができる。
実は、それには一つ秘訣があるんです。
それが、「いよいよ強盛の信力をいたし給え」です。
四条金吾は門下を代表するような信心の強き人です。
その金吾に、さらに「いよいよ強盛の信力を」と呼びかけられているのです。
いかに、この信力が重要であるか。
まさに信力を強めることこそが、最大限に功徳を引き出す鍵なのです。
池田先生は、つづられています。
「わが人生を決するのは自分自身です。自らが勝利劇の主人公なのです。そのことを、日蓮大聖人は『自受法楽』と明かされています。『法楽』によって私たちは、生きていることそれ自体が楽しいという境涯を獲得することができます。富や名声などで得た『欲楽』は一時的なもので、いつしか消えてしまうものです。生命の中から泉のごとく湧き出でる『法楽』こそ、永遠に崩れることのない真の喜びの境涯です。なにものにも壊されない、尽きることのない法楽の境涯こそ、絶対的幸福そのものなのです。妙法を持つ私たちは、この絶対的な境涯を『自受』、つまり、自ら受けることができます。自分自身の手で、幸福をつかむことができるのです」
まとめ
私たちは、決して現実から逃げ出すことなく、あらゆる困難をお題目とともに乗り越えて、挑戦のお題目、感謝のお題目を持続的に唱えてまいりたい。
そして、共々に衆生所遊楽の幸福境涯をこの現実社会の中に見出し、同志や友人を自受法楽へと導いて参ろうではありませんか。