涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱっときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候
涅槃経に転重軽受という法門がある。宿業が重く、今のこの一生に尽きないで、未来世に地獄の苦しみを受けなければならないところが、今のこの一生でこのような重い苦しみにあったので、地獄の苦しみがぱっと消えて、死んだら、人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗・一仏乗の利益を得ることがあるのである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「転重軽受法門」は、現在の千葉県あたりで信仰をしていた仲良し三人組の、太田乗明(おおたじょうみょう)、曾谷教信(そやきょうしん)、金原法橋(かなばらほっきょう)、に宛てて認められたお手紙です。
時は文永8年。この年大聖人は50歳。
首を斬られそうになるという、あの史上最大の難である「竜の口の法難」が9月にあったばかりの10月5日に、このお手紙を認められています。
さらにこの5日後には流罪地の佐渡に向かわれるというタイミングです。
首を切られて殺されそうになるという究極の難に遭われ、なんとか命は助かったものの、今度は一度行ったら二度と生きては帰れないと言われていた佐渡に流罪される直前です。
一体どんな思いで弟子たちは大聖人のもとに馳せ参じたことでしょうか。
悔しさと悲しさの中、断腸の思いで師匠にお別れを告げに来たのかもしれません。
その弟子たちの思いを汲み取って、大聖人ご自身が最も熾烈な難に立ち向かっている最中でありましたが、弟子たちへの激励のためにお手紙の筆をとられたのです。
そして何ゆえに、このような大難にあわねばならないのかについて、本抄ではその意味を3つの角度から教えられています。
第1には「転重軽受」の法門を示されて、この大難は宿命転換を遂げる好機であることを教えられています。
第2には、難を受けるのは、正法を弘めているのであれば必然であることを明かされています。
第3に、大聖人がこのように大難を受けられたのは、法華経を「身読」されているからであり、つまり大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを示唆されるのです。
大聖人やその門下が厳しい難に遭うのは、一体どんな意味があるのか?という弟子たちの疑問に大聖人は明確にお答えになりました。それはすなわち、宿命を転換するためであり、正法を弘めるゆえであり、法華経に予言された通りの難を受けているからであると。
中でも本抄で明かされる「転重軽重」の法門は、苦難をはね返すことで、マイナスをチャラにするだけでなく、プラスに転換していくことのできる法門です。
まさに、大聖人ご自身が命に及ぶ難を乗り越えることで、「転重軽受」の力を示されているとおりなのです。
解説
始めに「涅槃経に転重軽受と申す法門あり」とあります。
転重軽受とは「重きを転じて軽く受く」と読み下します。
これは、未来まで続くような重い宿業の報いを、今世に法華経ゆえの苦難に遭うことで、軽く受けて消滅させることを言います。
続く御文に「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが」とある通り、苦難が現れること自体は「過去の報い」であって、嬉しいことではありません。
しかし、転重軽受法門はこうした苦難の意味を大きく変えます。
日蓮大聖人の仏法は、いかなる重い罪も転換できないものはないと説く「蘇生の宗教」なのです。
続く御文には「今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦しみぱっときへて」とご断言されています。
これは本抄に示されている転重軽受の法門の大変重要な部分です。
地獄の苦しみを来世まで持ち越すような重い宿業の報いがジワジワ、だんだんと消えていくのではありません。
“いつか”ではなく“今すぐ”“直ちに”消滅するというのです。
何ゆえ、ぱっと消滅させることができるのか。
それは、十界互具の原理によります。
それを一言で説明するならば、大聖人の宿命転換の原理は、生命が本来持っているスーパーパワーである「仏界」を自身の胸中にあらわすこと、に尽きます。
太陽が昇れば、無数の星の光が直ちに消え去るように、仏界の生命を現せば、厳しい宿業であっても全て一瞬で消し去ることができるのです。
続く御文では、「死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」と仰せです。
ここで大事なのは、転重軽受がそのまま一生成仏への入り口であるという点です。
「人天」とは十界の人界と天界、「三乗」とは声聞・縁覚・菩薩の境地、「一乗の益」とは成仏の功徳のことです。
つまり転重軽受とは、単なる“業の清算”ではありません。
重い業を軽く受けるだけでなく、いつどこに生まれ変わっても、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・そして仏界の利益を得ていけるのです。
要するに転重軽受は、そのまま一生成仏の大道を開く門なのです。
まとめますと、大聖人の仏法における転重軽受法門とは、マイナスを清算してゼロにすることではなく、大きく方向転換することでプラスに転じることであり、苦難を受けることによって、今すぐ、この身のままで、成仏できることを意味します。
それは、宿業の意味するところが、単に罪の報いを受けるという意味の悪の存在ではなく、成仏のための試練としての善の意味に変わるのです。
生きている以上、苦難のない人生はありません。信心を頑張っていても必ず苦難は起こります。
しかし苦難こそは真実の生命の勝利のためにあるのです。
今まさに、苦難や宿命の波に押し流されそうになって苦しんでいる同志もたくさんいることでしょう。
なぜ自分がこんな目に、これほどまでに信仰しているのに、と思う気持ちもあるかもしれません。
しかし、そんな時こそ御書根本に行学を深め、戦い抜くべき時です。
決意も新たに宿命転換を祈るところから戦いを起こしていくならば、その瞬間から宿業こそが私たちを一生成仏へと引き上げてくれる糧となるのです。
池田先生はつづられています。
「苦難のない人生はない。真実の生命の安楽を勝ち取るためにこそ、人生には苦難があるのです。しかし、苦難を撥ね返す人間生命の力を知らなければ、苦難はさらに苦難を生み、人間を押しつぶしてしまう。末法とは、人間生命が無明に覆われ、悪縁に満ちた時代です。悪から悪へ、不幸から不幸へと、人々は押し流されてしまう。ゆえに、末法の人々を救うためには、何よりも苦難を撥ね返す人間生命の力を教えなければなりません。それが大聖人の仏法なのです」
まとめ
私自身も、病気、障害、貧乏の三重苦の真っ只中にあり、日々御本尊様の前に座って、苦難を乗り越える知恵と勇気を授けて下さいと祈っています。
そして私の成長は私だけのものではありません。
私の苦しむ姿からの宿命転換へのドラマが、同じ状況で悩む多くの人の「苦難」を「成長への糧」にと変換できるものと確信しています。
苦悩を自分だけの単なる苦しみで終わらせることなく、人生を深めるかけがえのない日々にするべく、御書根本、お題目根本で戦い抜いて、師匠・池田先生に必ずや勝利の報告をして参ります。