座談会御書講義

座談会御書「聖人御難事」講義(2024年10月度)

たとい大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照大神・八幡の守護し給うゆえに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし。月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし。

たとえ大鬼神がついた人であっても、日蓮を梵天・帝釈・日天・月天・四天王また天照大神・八幡大菩薩が守護されているゆえに、罰することができないと、確信していきなさい。月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきに付けこんでくるであろう。

背景と大意

今回学びます聖人御難事は、門下一同、つまり全ての弟子に与えられた御書です。

それでありながら、四条金吾のもとに留めておくように指示されています。

その点で、いかにこの御書が特別で重大な意味を持っているか、そのことを踏まえてお話を進めたいと思います。

聖人御難事は、大聖人が数々の大難を受けられたことについてのべられているので、その名がついた御書です。

そしてそれらの難は「法華経の予言」を大聖人がただ一人「真実」のものとした難であることを宣言し、ご自身が末法の御本仏であられる御確信を述べられています。

そして、さらに大事なことは、「出世の本懐」を遂げたと仰せになったことです。

「出世の本懐」とは、すなわち「仏がこの世に現れた目的」のことです。

それを「立宗より二十七年を経た弘安二年十月」についに遂げられたとの仰せです。

日蓮大聖人がご自身の出世の本懐について述べらた御書は、実は唯一この聖人御難事だけなのです。

いかにこの御書に重みがあるかがわかると思います。

大聖人の出世の本懐とは、本門のご本尊、お題目によって、全民衆を救う方法を確立することです。

では、立宗より二十七年にして、なぜ、この時に、大聖人は出世の本懐を遂げたとおっしゃられたのか。

それには重大なきっかけがありました。

それが熱原の法難です。

熱原とは、静岡県の富士方面のこと。

その頃、日興聖人が中心となって弘教拡大に取り組んでいた土地で、天台宗の僧侶や信徒などが次々と大聖人に帰依しました。

その熱原で農民信徒が「激しい弾圧」を受けたのが熱原の法難です。

では「激しい弾圧」とはどのようなものか。

熱原の20人の農民信徒は、稲泥棒の濡れ衣を着せられて逮捕され、取調べと言いつつ弓矢で射られるなどの拷問の果てに、首謀者とされた三人、神四郎・弥五郎・弥六郎が首を切られ、残りの17人も住むところから追放されるという、苛烈を極めるものでした。

取調べを行った平左衛門尉頼綱は「念仏を唱えれば許す」と信徒をそそのかしましたが、誰一人として信心をすてる者は出なかったといいます。

これまでの二十七年間、大聖人が受けられた難は、大聖人の戦いによって大聖人が受けられてきた難です。

しかし熱原の法難では、日興上人を中心とする弟子、信者の戦いによって起こり、末端の農民信徒が迫害を受けてしまった。

本抄が著された弘安2年の10月1日には、まだ、熱原の法難の渦中ではありましたが、大聖人は逐一、厳しい迫害に屈しない民衆の姿を伝え聞いておられたのでしょう。

そのことを持って、二十七年前に決意した、全民衆を救済する方法を確立するとの思いが結実したと悟って、出世の本懐を遂げたと仰せになったものと拝察されます。

大聖人は本抄で、厳しい責め苦にあっている門下に対して、御自身が大難を勝ち超えてこられたことを通して、法華経の行者を迫害するものには必ず罰が現れることを明かします。

そして法華経の行者をいじめる権力者は必ず滅びるのだから、「何も恐れることはない」「つけいる隙を作らないように信心を強めていきなさい」とご指導くださっています。

月々日々に信心を貫き通す、師子王の心をともどもに学んでまいりましょう。

解説

始めに「たとい大鬼神のつける人なりとも」とあります。

ここでいう鬼神とは、強大な権力を持って、大聖人やその門下を迫害しようとする勢力のことをあらわしています。

「大」鬼神と強く表現されていることからも、熱原の法難における権力の魔性が、強烈であったことが感じられます。

続く御文に「日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照大神・八幡の守護し給うゆえに、ばっしがたかるべしと存じ給うべし」とある通り、いかに厳しい弾圧が襲ってこようとも、日蓮大聖人を罰することはできませんでした。

伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪という厳しい迫害にも、命が守られ、大聖人は赦免されています。

ここで「梵釈・日月・四天等、天照大神・八幡の守護」とあるのは、諸天善神の守護という意味です。

つまり、法華経の行者であり、末法の御本仏であられる日蓮大聖人を諸天善神が守護しているから、大鬼神であろうとも大聖人を罰することができないと「存じ給うべし」確信していきなさいと仰せです。

最後に「月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」とあります。

私たち人間は常に細胞が生まれ変わっていると言われておりますが、私たちの心も常に縁に触れて変化しています。

その意味では今週は多めにお題目をあげたらから、来週はビールを多めに、というわけにはいきません。

月々日々に」との仰せを厳粛に受け止めるなら、信心を一瞬たりとも切らしてはいけないという意味ではないでしょうか。

嬉しい時、楽しい時、つらい時、悲しい時に、一瞬でも信心が途切れたとしたら「魔たよりをうべし」とある通り、魔につけこまれてしまう。

大聖人は、このあとの御文で、魔につけこまれて退転してしまった人の特徴を「臆病」「物覚えず」「欲深く」「疑い多き」、の4つであると明らかにしています。

師子王の心で臆病を弾き飛ばし、大聖人の教えのままに、ビールは少なめに、あらゆる疑う心と戦って参りましょう。

池田先生はつづっています。

「大聖人は、『一度もしりぞく心なし』と仰せです。戦い続ける人、すなわち、常に仏界を開いている人は、魔を寄せつけません。常に前進する人が、必ず偉大な境涯を築き上げることができる。そのための仏法です。『月々・日々につより給え』の信心こそ、三障四魔を破り、宿命転換を成し遂げゆく絶対勝利の根本なのです」

まとめ

私たちは、あらゆる戦いを真正面から取り組み、月々・日々に、常に前進し続ける信心で取り組んでいます。

この私たちを諸天善神が守らないわけがありません。

全ての戦いを絶対に勝つと決めて、一切の愚痴を消し去り、ともどもに最後の最後まで走り抜いて参りましょう。

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