座談会御書講義

座談会御書「四条金吾殿御返事」講義(2026年10月度)

法華経の信心をとおし給え。火をきるに、やすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え。あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや。

法華経の信心を貫き通しなさい。火をおこすのに、途中で休んでしまったなら、火を得ることはできない。強盛の大信力を出して、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人をはじめ、日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。人は悪名でさえ流すものだ。まして、善き名を流すのは当然である。ましてや、法華経ゆえの名はいうまでもない。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、文永9年、日蓮大聖人が51歳の時、四条金吾に送られたお手紙です。

本抄では「煩悩即菩提・生死即涅槃」という重要な法理が説かれており、別名を「煩悩即菩提の事」といいます。

これは、悩みや苦しみを抱えた私たちが、妙法を信じ実践する中で、その苦悩を成長と幸福へ変えていけるという法理です。

この時、まさに大聖人は猛烈な逆風とも言える法難のさなかにありました。

本抄が書かれた前年には首を切られそうになるという「竜の口の法難」、そしてこの年は佐渡流罪で明日の命をもしれぬ状況にありました。

お手紙をいただいた四条金吾は、鎌倉に住む中心的な門下の一人。

当時、大聖人の門下に対しても投獄・追放・所領没収という激しい弾圧があり、多くのメンバーが退転していきました。

そんな中、四条金吾は「竜の口の法難」の時には、処刑の場にまでお供し、流罪中にも佐渡まで大聖人を訪ねてきたとされています。

そうした弟子の思いを受けて、本抄の冒頭では、以前から変わらず志を寄せてきた四条金吾の真心を、本当にありがたいことであると讃えられています。

そして拝読御文の直前では、四条金吾が大聖人に従い、法華経の行者として人々に語っていることについて、大聖人は「これこそ法華経を人々に伝え、広めていく実践ではないか」と讃えられています。

その上で拝読御文ではより一層「頑張りなさい」と激励を重ねられます。

まだ何も始めていない人に「頑張りなさい」と言われた言葉ではありません。

大難の中で信心を貫き、師匠を支え、人にも法華経を語っていた四条金吾に対して「信心を貫き通しなさい」と励まされた御文なのです。

では、信心を「貫き通す」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。

信心を「貫き通す」やり方とは、一体どんなものか、一緒に学んでまいりましょう。

解説

はじめに「法華経の信心をとおし給え」とあります。

「とおす」とは、途中で投げ出さず、最後まで貫くことです。

信心は、一度大きな決意をしたら終わりではありません。

良い時も、苦しい時も、迷う時も、信心の根本を手放さずに歩み続けること。

そのことを大聖人は、「火をきるに、やすみぬれば火をえず」と、非常に分かりやすい譬えで教えてくださっています。

火が必要な状況なのに、火がつく前に「あー疲れた」と言って途中で休憩を挟んでいると、いつまで経っても火をゲットすることができません。

あと少しで火がつくところだったとしても、そこで手を止めてしまえば、結果にはつながらない。

私たちの信心も同じです。

退かず、何があっても信心を手放さない。

途中で手を止めず、火がつくまで続けなければ、火を起こすことはできないからです。

もちろん、疲れる日も、立ち止まる日もあると思います。

しかし、何度でも題目に戻る。

何度でも御書に戻る。

この「戻り続ける力」もまた、信心を貫く姿ではないでしょうか。

続く御文に「強盛の大信力をいだして」とあります。

信力・行力が弱ければ、偉大な仏力・法力を現実に十分に現すことができません。

どんなに大きな鐘も、爪楊枝で叩いたぐらいでは大きな音を鳴らせません。

この時代はまさに、大聖人と門下への迫害が続く厳しい状況でした。

迫害の嵐の中で、多くの門下が信仰を捨て、退転してしまいました。

だからこそ大聖人は、四条金吾にさらに強い大信力をいだそうと励まされたのです。

そして、その強盛の大信力をもって「『法華宗の四条金吾、四条金吾』と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え」と仰せです。

「法華宗の四条金吾」とは、法華経を信じ、弘める人という意味です。

また「上下万人」とは、身分の上下を問わず、鎌倉中の人々ということ。

大聖人は、四条金吾にインフルエンサーになりましょうと言っているのではありません。

「法華宗の四条金吾」と呼ばれる人になりなさい、と仰せなのです。

名前が知られること以上に、何によって、その人の名が知られているのか。

現代では、SNSなどを通して、良い評判も悪い評判も、あっという間に人から人へ広がっていきます。

しかし、単にフォロワーが増えればいい、名前が売れればいいという話ではありません。

「あの人は苦しい時にも逃げなかった」

「あの人は人を大切にする」

「あの人は信心を根本に誠実に生きている」

そんな生き方と一緒に、自分の名前が語られていくこと。

最後に「あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや」と仰せです。

悪い評判でさえ、人は口から口へ広げていく、まして、善い名ならなおさらである、ましてや、法華経ゆえの名なら、いうまでもない、と。

ここは、三段階で言葉が強くなっています。

悪名、善き名、そして、法華経ゆえの名。

悪名を広げてしまうのか、それとも善き名を広げられるのか、さらに法華経ゆえの名をどうやって広げていくのか。

実は、戦い方はシンプルです。

法華経の信心をとおし、現実の人生と生活に勝利して、人格を磨き周囲から信頼され尊敬されること。

これを信心即生活、仏法即社会といいます。

そうした生き方を貫く中で、地域や職場でも『学会の人』として信頼される存在を目指していく。

その意味で、一挙手一投足が戦いです。

「学会の人」として恥ずかしくない振る舞いができているかどうか。

広まるのがあしき名なのか、よき名なのかは、まさに自分次第なのです。

池田先生はつづっています。

「『仏法即社会』である。ゆえに、仏法の哲理を社会に開き、時代の建設に取り組むことは、信仰者の使命である。それには、一人ひとりが人格を磨き、周囲の人びとから、信頼と尊敬を勝ち得ていくことだ。人間革命、すなわち、人格革命こそが、そのすべての原動力となるのである。職場にあっては、仕事の第一人者、勝利者としての実証を示し、信頼の柱となるのだ。地域にあっては、友好の輪を広げ、和楽と幸福の実証を打ち立て、地域の希望の太陽となっていくのだ。仏法は、各人の人格、生き方を通して、社会に輝きを放つのである」

まとめ

今回学んだ御書は、有名になることを勧めている御書ではありません。

何によって名前が知られるのかが大事です。

信心を貫き、現実社会の中で誠実に行動し、周囲から信頼される。

そして「あの人は学会の人だ」と言われる生き方を築いていく。

さあ、私たちは「法華経の信心をとおし給え」の御金言を胸に、共々に強盛の大信力を奮い起こし、仏法即社会の実証を勝ち取ってまいりましょう。

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