法華経の信心をとおし給え。火をきるに、やすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え。あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや。
法華経の信心を貫き通しなさい。火をおこすのに、途中で休んでしまったなら、火を得ることはできない。強盛の大信力を出して、「法華宗の四条金吾、四条金吾」と、鎌倉中の上下万人をはじめ、日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。人は悪名でさえ流すものだ。まして、善き名を流すのは当然である。ましてや、法華経ゆえの名はいうまでもない。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、文永9年、日蓮大聖人が51歳の時、四条金吾に送られたお手紙です。
本抄では「煩悩即菩提・生死即涅槃」という重要な法理が説かれており、別名を「煩悩即菩提の事」といいます。
これは、悩みや苦しみを抱えた私たちが、妙法を信じ実践する中で、その苦悩を成長と幸福へ変えていけるという法理です。
この時、まさに大聖人は猛烈な逆風とも言える法難のさなかにありました。
本抄が書かれた前年には首を切られそうになるという「竜の口の法難」、そしてこの年は佐渡流罪で明日の命をもしれぬ状況にありました。
お手紙をいただいた四条金吾は、鎌倉に住む中心的な門下の一人。
当時、大聖人の門下に対しても投獄・追放・所領没収という激しい弾圧があり、多くのメンバーが退転していきました。
そんな中、四条金吾は「竜の口の法難」の時には、処刑の場にまでお供し、流罪中にも佐渡まで大聖人を訪ねてきたとされています。
そうした弟子の思いを受けて、本抄の冒頭では、以前から変わらず志を寄せてきた四条金吾の真心を、本当にありがたいことであると讃えられています。
そして拝読御文の直前では、四条金吾が大聖人に従い、法華経の行者として人々に語っていることについて、大聖人は「これこそ法華経を人々に伝え、広めていく実践ではないか」と讃えられています。
その上で拝読御文ではより一層「頑張りなさい」と激励を重ねられます。
まだ何も始めていない人に「頑張りなさい」と言われた言葉ではありません。
大難の中で信心を貫き、師匠を支え、人にも法華経を語っていた四条金吾に対して「信心を貫き通しなさい」と励まされた御文なのです。
では、信心を「貫き通す」とは、具体的にどういうことなのでしょうか。
信心を「貫き通す」やり方とは、一体どんなものか、一緒に学んでまいりましょう。
解説
はじめに「法華経の信心をとおし給え」とあります。
「とおす」とは、途中で投げ出さず、最後まで貫くことです。
信心は、一度大きな決意をしたら終わりではありません。
良い時も、苦しい時も、迷う時も、信心の根本を手放さずに歩み続けること。
そのことを大聖人は、「火をきるに、やすみぬれば火をえず」と、非常に分かりやすい譬えで教えてくださっています。
火が必要な状況なのに、火がつく前に「あー疲れた」と言って途中で休憩を挟んでいると、いつまで経っても火をゲットすることができません。
あと少しで火がつくところだったとしても、そこで手を止めてしまえば、結果にはつながらない。
私たちの信心も同じです。
退かず、何があっても信心を手放さない。
途中で手を止めず、火がつくまで続けなければ、火を起こすことはできないからです。
もちろん、疲れる日も、立ち止まる日もあると思います。
しかし、何度でも題目に戻る。
何度でも御書に戻る。
この「戻り続ける力」もまた、信心を貫く姿ではないでしょうか。
続く御文に「強盛の大信力をいだして」とあります。
信力・行力が弱ければ、偉大な仏力・法力を現実に十分に現すことができません。
どんなに大きな鐘も、爪楊枝で叩いたぐらいでは大きな音を鳴らせません。
この時代はまさに、大聖人と門下への迫害が続く厳しい状況でした。
迫害の嵐の中で、多くの門下が信仰を捨て、退転してしまいました。
だからこそ大聖人は、四条金吾にさらに強い大信力をいだそうと励まされたのです。
そして、その強盛の大信力をもって「『法華宗の四条金吾、四条金吾』と、鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたわれ給え」と仰せです。
「法華宗の四条金吾」とは、法華経を信じ、弘める人という意味です。
また「上下万人」とは、身分の上下を問わず、鎌倉中の人々ということ。
大聖人は、四条金吾にインフルエンサーになりましょうと言っているのではありません。
「法華宗の四条金吾」と呼ばれる人になりなさい、と仰せなのです。
名前が知られること以上に、何によって、その人の名が知られているのか。
現代では、SNSなどを通して、良い評判も悪い評判も、あっという間に人から人へ広がっていきます。
しかし、単にフォロワーが増えればいい、名前が売れればいいという話ではありません。
「あの人は苦しい時にも逃げなかった」
「あの人は人を大切にする」
「あの人は信心を根本に誠実に生きている」
そんな生き方と一緒に、自分の名前が語られていくこと。
最後に「あしき名さえ流す。いわんやよき名をや。いかにいわんや法華経ゆえの名をや」と仰せです。
悪い評判でさえ、人は口から口へ広げていく、まして、善い名ならなおさらである、ましてや、法華経ゆえの名なら、いうまでもない、と。
ここは、三段階で言葉が強くなっています。
悪名、善き名、そして、法華経ゆえの名。
悪名を広げてしまうのか、それとも善き名を広げられるのか、さらに法華経ゆえの名をどうやって広げていくのか。
実は、戦い方はシンプルです。
法華経の信心をとおし、現実の人生と生活に勝利して、人格を磨き周囲から信頼され尊敬されること。
これを信心即生活、仏法即社会といいます。
そうした生き方を貫く中で、地域や職場でも『学会の人』として信頼される存在を目指していく。
その意味で、一挙手一投足が戦いです。
「学会の人」として恥ずかしくない振る舞いができているかどうか。
広まるのがあしき名なのか、よき名なのかは、まさに自分次第なのです。
池田先生はつづっています。
「『仏法即社会』である。ゆえに、仏法の哲理を社会に開き、時代の建設に取り組むことは、信仰者の使命である。それには、一人ひとりが人格を磨き、周囲の人びとから、信頼と尊敬を勝ち得ていくことだ。人間革命、すなわち、人格革命こそが、そのすべての原動力となるのである。職場にあっては、仕事の第一人者、勝利者としての実証を示し、信頼の柱となるのだ。地域にあっては、友好の輪を広げ、和楽と幸福の実証を打ち立て、地域の希望の太陽となっていくのだ。仏法は、各人の人格、生き方を通して、社会に輝きを放つのである」
まとめ
今回学んだ御書は、有名になることを勧めている御書ではありません。
何によって名前が知られるのかが大事です。
信心を貫き、現実社会の中で誠実に行動し、周囲から信頼される。
そして「あの人は学会の人だ」と言われる生き方を築いていく。
さあ、私たちは「法華経の信心をとおし給え」の御金言を胸に、共々に強盛の大信力を奮い起こし、仏法即社会の実証を勝ち取ってまいりましょう。
