帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来って其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か
帝王は国家を基盤として天下を治め、臣下の者は田園を領有して世の中を安心して暮らせるようにするものである。しかし、外敵がやって来てその国を侵略し、内乱・反逆が起こってその地を支配下に置くなら、どうして驚かないことがあるだろうか、どうして騒然としないことがあるだろうか。国家が滅亡してしまったら、世を逃れるといっても、どこに行くことができるだろう。自身の安心を考えるなら、あなたはまず社会全体の静穏を祈るべきではないのか。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります立正安国論は、日蓮大聖人が39歳の時、当時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出された書です。
立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、最高峰の書です。
なぜなら、日蓮大聖人の時代から現代にいたるまでの全民衆の救済法を述べた書であり、全世界に真実の幸福をもたらすための大聖人の結論の書だからです。
立正安国論は、最高権力者に対して、誤りを指摘して正している内容なので「国主諫暁の書」と言われています。
諫暁の諫は、いさめる、暁はさとす、と読み、相手の誤りを指摘して正しい道に導くという意味です。
国主諫暁という意味では、権力者に宛てて書かれた書ではありますが、民主主義の現代にあっては、苦悩に沈み、絶望の淵に立たされている、全世界の民衆に対して認められたと捉えるべきでしょう。
立正安国論の執筆の直接的な動機となったのは、正嘉の大地震とされています。
自然災害が相次ぎ、疫病や飢饉のために多くの人が亡くなっていく世相にあって、どうにかして民衆を救いたいと願い、その災難の根本原因について究明されたのが立正安国論です。
立正安国論が認められたのは1260年のことですから、今から760年も前の様子が記されているんですが、現代を生きる私たちにとっても、まさに現実を変革するご指導が記されています。
立正安国とは、「しょうをたて、くにをやすんず」と読み、具体的には人々の心に正法を確立し、社会の繁栄と平和を築く、という意味になります。
立正安国の立正とは、一人一人の人間の心の変革を言います。
それは自身に最初から備わっている「仏界の生命」に目覚め、「生命尊厳」の生き方を確立することです。
一人の変革の人が立ち上がることが、周囲を善の方向へ、平和の方向へと変革していくことにつながります。
つまり、立正とは、生命尊厳のため、平和のために、立ち上がる一人一人を育てることなのです。
また、安国とは、狭い意味での国家体制のことを指すものではありません。
安国とは全世界において、自他共の幸福を目指す思想が重んじられることです。
創価学会の民衆運動の根本精神は、まさに「立正安国」そのものです。
そして、民衆の幸福のために、民衆から不幸と悲惨を取り除くために、立正安国の闘争に身命を賭したのが、創価三代の師弟です。
「一人」を大切にし、一対一の対話に徹する創価の心の中に、「立正」の実践も「安国」の使命も含まれています。
今回の拝読御文は、いかにして個人の幸福を実現するかについて述べられた重要な箇所です。
まさに私たちの日々の学会活動の実践こそが、全人類の幸福を実現するという確信をともどもに深めて参りましょう。
解説
前半部分の「帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来って其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん」という箇所では、大聖人は国の指導者は決して戦乱を招いてはいけない、と示されています。
大聖人はこの御文の直前で、四つの経文に照らして、まだ起こっていない災難があることを挙げられています。
具体的には「自界叛逆難」「他国侵逼難」の二難であり、要するに国内外で起こってしまう「戦争」のことです。
戦争だけは絶対におこしてはならない、それが大聖人の国家諌暁の中身です。
ひとたび戦争が起これば、国家も民衆の生活もズタズタにされてしまいます。
その時になって慌てても、逃げる所すらありません。
だからこそ、大聖人は力強く仰せになります。
「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」、自身の安穏を願うのであれば、まず、自分を取り巻く社会の平穏を祈らなければならないと。
これは、民衆の幸福と世界平和を実現するための大聖人の結論です。
四表とは東西南北の四つの方向のことで、静謐とは世の中が穏やかに治まること。
つまり国内外の平和のことです。
人間の安穏は、本質的には自分一人だけでは実現できません。
一人の人間が安心して暮らしていくには、自然環境も社会環境も、平和で安定して発展していることが重要です。
それ故「一身の安堵」を本当に求めるなら、「四表の静謐」すなわち全世界の平和に思いを馳せるべきなのです。
この御文は権力者への諫暁であるとともに、民主主義の現代においては、私たち一人一人の実践の指標ともいえます。
家庭の平和だって同じです。
普段は仲が悪くて「亭主元気で留守がいい」ということはあるかもしれませんが、ひとたび夫が大病してしまったら大好きな喧嘩すらもできません。
ちょっと憎らしいところがあったとしても、心の中では夫が病気や怪我などの災難に出逢わないように真剣に祈って、自他共の幸福を願いつつ、程よく喧嘩もしたいところです。
立正安国、立正安世界といっても、現実の世界に、地域に、誠実に対話を重ねることこそが、日蓮大聖人の慈悲のご精神に連なる闘争です。
一人の人を大切に、着実に生命尊厳の思想を広げていくならば、一身の安堵も、四表の静謐も必ず実現できる。
そう確信して戦って参りたい。
池田先生はつづっています。
「我らの大願は『立正安国』の実現だ。その出発は、自他共の幸福を築く『真剣な祈り』である。その実践は、足元からの『誠実な対話』である。我らが祈り、動き、語った分、幸の仏縁が広がる。『この世から悲惨の二字をなくすのだ!』恩師が熱願された平和安穏の楽土へ、勇気凛々と朗らかに、友情と信頼のスクラムを結び築いていこう!」
まとめ
日蓮大聖人が立正安国論を書き上げた動機は未曾有の災害、災難に民衆があえぎ苦しんでいる状況に心を痛められたことでした。
もちろん、批判され攻撃されることも理解した上で、国主諫暁に挑まれたと推察されます。
私たちの戦いも、友人に少し語っただけで、すぐに理解が広がるわけではありません。
しかし「真剣な祈り」と「誠実な対話」が、必ずや突破口となって、創価の人間主義、生命尊厳の思想は拡大していくはずです。
私たちは、池田先生のご指導の通り、真剣なお題目で勇気を奮い起こして、日々の学会活動に挑み、揺るぎない自他共の幸福を実現しながら、全世界の安穏のために一歩ずつ前進して参りましょう。