末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり
末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。もしそうであるならば、身分の貴さや賤しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身が宝塔であり、その人自身がまた、多宝如来なのである。妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。法華経の題目は宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経なのである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「阿仏房御書」は、日蓮大聖人が佐渡に流罪中に夫婦で入信したという男性に与えられた御手紙です。
阿仏房は入信後、食料や紙などを大聖人に届けて、大変厳しい佐渡での生活をお守りした代表的な門下です。
また大聖人が身延に入山した後も、何度も大聖人の元を訪れていて、今回拝読します「阿仏房御書」にも真心の供養が阿仏房から大聖人に届けられていることが書かれています。
そして、阿仏房はそのご供養とともに、とある仏法の法門について大聖人にお尋ねします。それが「法華経に説かれる多宝如来や宝塔の涌現とは、一体、何をあらわしているのか」という内容です。
ここで、「宝塔」というキーワードが出てまいりましたが、この御書は別名を「宝塔御書」と申します。それは、この「宝塔」について詳しく大聖人がご説明されている御書だからです。
宝塔といいましても何の話をしているか、ちょっとイメージがわかないと思いますので、ここでは、阿仏房の質問の意味を明確にするために、あらためて法華経見宝塔品第11で説かれる宝搭湧現の場面について説明します。
物語は、突然、人々の目の前に宝塔が出現するところから始まります。巨大な宝塔が地面から涌き出して、空中に浮かびます。
そしてその宝塔の中から、釈尊が言っていることは全て真実だという多宝如来の声が聞こえてきます。
多宝如来とは、法華経を説くところに宝塔を湧現させて法華経の真実を証明することを誓った仏です。
このあと釈尊によって宝塔の扉が開かれ「虚空会の儀式」が始まりますが、その壮大な儀式も、宝塔の出現から始まったのでした。
その宝塔は小さく見積もっても地球の直径の三分の一の大きさで、金銀財宝、七つの宝で飾られているという、とんでもないスケールの強烈にきらびやかな宝の塔です。
果たして、こんな想像を絶するような宝塔は、一体何を表しているのでしょうか? 阿仏房がその意味を知りたいと思ったのも頷ける気がしますよね。
この質問に対し、大聖人は「この話はめちゃくちゃ大事なことです」と前置きをしてから、まず天台大師の解説をひもといて順々と説明するかと思いきや、「ものすごくややこしいから、やめておきます」と言って天台の話を展開せずに終わらせます。
そして、簡単に「所詮は自分の心の中に宝塔を見たということです」と結論します。要するに、「宝塔を見る」とは、自身の生命の本来の姿が宝塔だと「知る」ことです。
そして、末法の私たちも、まさに自分の心に宝塔を見ているのだとおっしゃいます。つまり「宝塔」というのは、遠いインドの昔話や経文の上だけの話ではなく、まさに私たちのことを指しているのです。
解説
まず始めに「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」とあります。
「すがた」とは、外に現われた姿形・行動のことです。
大聖人は、この生きた人間の「すがた」のほかに宝塔はないと断言されています。
まさしく、私たちが御本尊を持ち、お題目を唱え、仏法を弘めゆく「すがた」こそ、「尊極の宝塔」に違いありません。
また、逆に言えば、自分の姿を宝塔とするには、法華経を持ちお題目を唱える以外にはないとの意味にもなります。
次に「若し然れば貴賤上下をえらばず」とあります。
「貴賤上下」とは、もともとは人々を差別する言い方であり、身分の貴い人と賤しい人、地位の高い人と低い人という意味です。
しかし、仏法は「貴賤上下をえらばず」です。
これぞ大聖人の最高の人間尊厳の思想です。そこには、男か女かという差別もなければ、社会的立場の違いも問題ではありません。
「南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」です。
お題目を唱えるならば、皆宝塔であり、又多宝如来なのです。
多宝如来とは、法華経の真実を証明することを誓った仏です。
要するに法華経の証明者です。
証明者とは、決して傍観者ではありません。
法華経が説かれるところには必ずあらわれるとの誓いのままに、法華経が最高の教えであることを我が身で証明する使命があるのです。
続く御文に「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」とあるのは、大聖人があらわされた御本尊とは宝塔であり、南無妙法蓮華経こそが宝塔であるとの仰せです。
例えば鏡がなければ自分の顔を見ることはできません。
我が身が宝塔であるといっても、宝塔たる御本尊を鏡としてお題目を上げることで、我が身に宝塔を見ることができるのです。
御本尊とお題目を弘め、貴賤上下の差別なく、あらゆる人、一人ひとりの胸中に宝塔を打ち立てる。
これこそが私たち創価学会の使命ではありませんか。
池田先生はつづられています。
「一人の人間が『わが身』の真実の可能性を知った時に、一人の偉大な人間革命が始まります。自身の尊極にして偉大な可能性に目覚めた人は、他者の存在の尊さにも気づきます。自他共の尊厳性を心から認め合えれば、人類は境涯を高めることができます。自他を覆う無明を打ち破れば、人類は相克と葛藤の宿命を転換することができます」
まとめ
宝に飾られた荘厳な宝塔は、自分の中にあります。
そしてみんなの中にもあります。
お題目を上げ抜いていけば、みんなが人材です。
みんなが宝塔であり、大聖人の仏法を証明する多宝如来です。
まずは私自身が、先頭に立って創価の生命尊厳の哲理を語りに語り、一人また一人と人材を増やしつつ、使命ある我が地域で広布の前進に取り組んでまいります。
さあ、「前進・人材の年」の本年、今こそ尊き使命を自覚して、共々に自分史上最高の拡大戦を勇んで進めてまいりましょう。