日蓮は少きより今生のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。
日蓮は若い時から今生の栄えを祈ったことはない。ただ仏になろうと思い願うだけである。しかし、あなたのことは、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、日蓮大聖人が56歳の時に、身延で著され、鎌倉の四条金吾に与えられたお手紙です。
その内容から別名を「世雄御書」ともいいます。
この時、四条金吾は人生最大の苦境の中におりました。
四条金吾がある法論の場に武装して乱入したと言うデマを流され、それを信じた主君から“法華経の信仰を捨てる”という書類を提出するように言いつけられてしまいました。
書類を書かなければ、財産を没収されるという事態だったのです。
当時の侍にとって主君というのは単なる上司という立場ではなく、命すら左右できる存在です。
主君から書類を出せと言われて断ることがどれほど難しいことでしょうか。
しかし、四条金吾はその書類を絶対に書かないとの決意を、大聖人に御報告しました。
大聖人は、四条金吾の決意を賞讃され、四条金吾に代わって主君に許しを求める書面を提出しました。
本抄では、金吾への激励を重ねられており、大聖人が一人の弟子に対して強く勝利を願われていることが感じられます。
今回の拝読御文は、金吾の師弟不二の闘争に対する深い御慈悲と讃嘆の思いを綴られた箇所です。
解説
初めに、「日蓮は少きより今生のいのりなし」とあります。
「今生のいのり」とは、現世において自分自身が栄えることを願うことを指しています。
私たちで言えば、お給料がもっと増えたらいいな、とか、もっと立派な車に乗りたいな、とか、素敵なアクセサリーがたくさん欲しいな、とか、実際のところ「今生のいのり」はつきません。
しかし、大聖人は自分が目立ったり偉くなったりすることにはご関心がありませんでした。
ただひたすら全ての人々を救うために、との思いを貫いてこられたのです。
「ただ仏にならんとおもうばかりなり」とは、仏の境界を開いて、全民衆を救いたいとのご誓願の一文です。
その上で、続く御文に「されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり」とあります。
自分のことは少しも祈ったりはしないけど、それでも弟子の四条金吾のことは絶えず祈っているとのお言葉です。
「その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり」との仰せは、四条金吾の師弟不二の信心を最大限に讃えられたものと拝せられます。
大聖人は本抄の冒頭で「仏法は勝負」であると仰せです。
一人の信仰者の勝利なくして、仏法の勝利はありません。
師匠である日蓮大聖人は、御自身が厳然と魔軍と戦われ、その全てを打ち破られました。
その勝負は、広宣流布・民衆救済という「法華経の命」を甦らせる勝負でもあったのです。
では、この法華経の命を継ぐのは誰か。
それは師と同じく「仏法は勝負」を体現した弟子の戦い以外にありません。
大聖人は、厳しい難にも退くことなく信心を貫こうとしている金吾を「法華経の命を継ぐ人」として見ておられました。
大聖人は、ひたすら弟子の成長と勝利を願われました。
弟子の勝利とは広宣流布の源流です。
そして「法華経の命を継ぐ人」が出現することこそが、大聖人の勝利となるのです。
現代において「法華経の命を継ぐ人」とは創価学会そのものと言えると思います。
ほんの少しだけ「今生のいのり」がありますので、「今生のいのり」をしっかりと叶えつつ、しかし、その根本には広宣流布・民衆救済の祈りがあります。
師匠の勝利は弟子の戦いで決まる。
この決意に燃えて「仏法は勝負」と挑戦する私たち同志の信心こそ、まさに「法華経の命を継ぐ」戦いではないでしょうか。
池田先生はつづられています。
「大聖人は、弟子の勝利のために、金吾のことを絶えず祈り抜かれていると仰せです。それは、弟子の幸福を祈る大慈悲であることは言うまでもありません。とともに、何よりも、広宣流布の流れを絶やさず、法華経の功力を継承させていくためであるからと仰せです。『法華経の命を継ぐ人』が出現したことは、師匠の勝利であり、仏法の勝利です。あとは弟子が、師匠の思いを受け止め、師弟不二の信心で、戦い、勝利することです」
まとめ
いよいよ夏も本番、気温が上昇し厳しい気象状況も出てくると思われます。
仏法は勝負。健康・無事故も勝負です。
同志や友人を励ましながら、健康でも勝利、無事故でも勝利を真剣に祈りつつ、友好拡大の充実した日々として参りましょう。