天台云く「法華折伏・破権門理」と まことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時 行ずるならば 冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、雞の暁に鳴くは用なり 宵に鳴くは物怪なり
天台が「法華経は折伏の教えであり、権教の理を打ち破っている」といっているのは、まさしく道理に適っている。それなのに、摂受である安楽行品に説かれる四つの修行を今の時に実践するならば、それは冬に種をまいて春に収穫を得ようと期待するようなものではないか。鶏は夜明けに鳴くから役に立つ。日暮れに鳴けば化け物である。
背景と大意
今回、皆さんと学んでまいります御書は「如説修行抄」です。
如説修行とは、つまり「仏の説の如く修行する」という意味で、要するに正しい修行・信仰のあり方のことです。
大聖人は当時、竜の口の法難・佐渡流罪という大難が続くなかで、「開目抄」「観心本尊抄」等の重書を著わされておりまして、その後に門下一同にしたためられたのがこの「如説修行抄」であります。
如説修行抄は、大聖人が大難の連続の渦中にあることを“不安に思う”弟子たちに、流罪中の佐渡から、何も恐れることはない! と激励を送られた御書であります。
それでは簡単に本抄全体の解説をしておきます。
如説修行抄では、まず、はじめに、「この信心をするものには大難が競い起こる」ということを明言されています。
だから、弟子にはかねがね「難が競い起こりますよ」と言ってきたのに、実際に難が起こってみると初めてそれを聞いたかのように肝をつぶして退転してしまう、と。
ここから問答が始まります。
いや、でも、しかし、正しい信仰してれば現世安穏に幸せに暮らせるんじゃなかったんですか、と。
いやいや、それは過去の例をみれば、如説修行の人、すなわちこの信心を正しく伝えようとした人はみな悉く大難にあってるわけで難が競い怒るのは当然なんですよ。
一人残らず折伏して、すべての人が一同に南無妙法蓮華経と唱えていくならば、それこそ現世安穏じゃないですか、と。
じゃあ、ところで、その如説修行の人ってどんな人ですか?
それは、仏説どおりに修行する人のことですよね。
それって、あれでしょ。山にこもってひそかに信心してても信仰は信仰。無理やり折伏しなくても如説修行になるんじゃないの?
いやいや、確かに仏道修行には折伏と摂受の二通りがあるけども、ものごとには「時」というものがあるでしょ。
夏は暑くて、冬は寒い。極寒の寒さではヒートテックが役に立つけど、夏にヒートテックを着ればそれは大変なことになる。
今、末法というこの時代にあって、戦わずに、山に引きこもってただただお題目をあげてるのは、「時」を見失っているんじゃないのかと。
実は、この如説修行と言うのは、まさに日蓮大聖人とその門下の「折伏」の戦いの実践ことなんだよ、と。
今、大聖人やその弟子たちが受けている苦しみは、たとえどんなにエグイ迫害を受けていたとしても、所詮は霜や露が朝の太陽で消えてしまうように、わずかの辛抱なのだから、最後の最後、ギリギリまで南無妙法蓮華経と唱えていきましょうね。
という御書でございます。
今一度、大胆にポイントをまとめますと、ガンガンに折伏に打って出る「如説修行」をすると、いろいろと嫌なことがあったり邪魔が入ったりするけども、成仏は間違いないのだから、一切怖がることなく、やり通しましょう!
というご指導であります。
解説
「天台云く、法華折伏・破権門理、と まことに故あるかな」とあります。釈尊は長い時間をかけて、さまざまな観点から説法をしていきましたが、真実の教えである法華経を説くまでは、聞く人の状態を底上げするために仮の教えを説いてきました。
法華経は、釈尊が法華経を語るまでに説いていた権教、すなわち仮の教えを、ことごとく論破して正しい法を説いていきます。
つまり、法華経の根本精神は、間違った考えを鋭く破折する「折伏」の教えなのであります。
「然るに摂受たる四安楽の修行を」とあります。摂受というのは「相手の主張の違いを容認しつつ次第に誘因して正法に入らせる」修行であります。
また、ここで大聖人が指摘しているのは、敵を攻めずに、一人静かなところでおのれの修行だけに専念する、信仰のあり方のことです。
それを、「今の時 行ずるならば」とあります。「今の時」というのは末法のことです。
末法とは釈尊入滅2000年後以降のことで、現代も末法という時代であります。
末法には、真実と虚偽、正義と邪悪が入り乱れる、と説かれており、正しいことが何なのかわからなくなる大変難しい時代であります。
そんなときに、摂受、すなわち、山に引きこもってお題目をあげているだけの信心をしていては、「冬種子を下して、春菓を求る者にあらずや」となってしまうとの厳しいご指摘であります。
また「今の時」とは、大聖人の時代のことだけではありません。今の今、まさに今この時こそ、戦うときであります。
虚偽や邪悪を喝破して、真実と正義を打ち立てる「折伏」行を行ってこその信心です。
戦うべきときに戦うことを「鶏の暁に鳴くは用なり」といい、戦わないのは「宵に鳴くは物怪なり」であります。
その一方で、折伏には勇気が必要です。
「如説修行とは何か」をいくら学んだとしても、行動しなければ何もなりません。
また折伏とは、大聖人の仏法の偉大さを語っていくことにほかなりませんが、仏法の理論や理屈をわかってもらうことだけが、弘教につながるわけではないことは、みなさんもご承知のとおりです。
私たちの相手の幸せを願う真心は必ず通じる。
それを祈りきる「勇気」こそが折伏精神ではないでしょうか。
たとえ今、折伏ができるほど仏法の真髄を理解していなかったとしても、相手を説き伏せるまでの確信がなかったとしても、一歩も引くことなく折伏に挑戦することで、確信をつかむことができる。また、仏法の真髄に一歩近づくことができる。
そう心に決めて『行動』して参りたいと思います。
池田先生は次のように語られています。
「末法は、価値観が混乱し、何が正しいか何が大切かがわからない時代です。そのような混乱の時には、これこそが正義である、これがもっとも大切だ、と明確に示していかないといけない。折伏とは、真実を語ることです。勇気を持って言い切っていくことです。正義の旗を高く掲げることです。誰もが大切にすべき普遍的な価値・正義を確立し、実現していくための戦いです」
まとめ
私自身、正直に申し上げますと、友人へのコンタクトも、いろいろな言い訳をしながら、なかなかとれていない現状がありました。
しかし、先生のご指導にある、「真実を語る勇気」を今こそ出す『時』だと心を決め、かねてからアタックしていた友人と、また会社の元同僚と、会う約束ができました。
戦うべき『時』を見失わず、必ず相手を幸せにするんだという決意で勇気を奮い起こして祈りきってまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
さあ、大聖人の仰せのままに、如説修行の人となり、池田先生のご指導のとおりに、戦って戦って、戦い抜いて、折伏の金字塔をともどもに打ち立てて参ろうではありませんか。