座談会御書講義

座談会御書「日眼女造立釈迦仏供養事」講義(2025年6月度)

譬えば頭をふればかみゆるぐ。心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし。教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき。

たとえば、頭を振れば、髪が揺れる。心が働けば、身体が動く。大風が吹けば、草木も揺れる。大地が動けば、大海も荒れる。同じように、教主釈尊を動かせば、揺るがない草木があるだろうか、騒がない水があるだろうか。

背景と大意

今回学びます日眼女造立釈迦仏供養事は、日蓮大聖人が58歳の時、日眼女、すなわち、四条金吾の妻に与えられた御書です。

そのとき日眼女は37歳。

37歳は女性の厄年とされている年齢で、その厄年に起こるとされている災いに備えて、日眼女は大聖人に供養をします。

その供養について大聖人がお返事をしたためたのがこの御書です。

本抄には日眼女が「教主釈尊、一体三寸の木像を造立して供養した」と書かれておりまして、そのことから「日眼女造立釈迦仏供養事」と呼ばれています。

言うまでもなく、私たちの信仰の対象に絵や木で作られた仏像は存在しません。

しかし、大聖人はこの日眼女の仏像の供養に対して「日本一の女性である」とお褒めになられます。

仏像を供養すること自体は厳密に言えば本来の信仰ではありませんが、大聖人はその信心の姿勢そのものを尊いと感じられてお褒めになられたと推察されます。

日眼女の心からの純粋な供養には、広大無辺の功徳がある。

これが本抄に込められた大聖人の深き慈愛なのです。

本抄で大聖人は「あらゆる仏の根本である釈尊を揺り動かす信心があれば、かなわないことなどない」というご確信を述べられ、日眼女はその釈尊の像を造立した功徳によって、すべての神々や諸仏から守護されるとご断言されます。

さらに、すべての経の中の王である法華経だけに女性が成仏することが説かれていると明かし、日眼女の成仏が間違いないことを宣言されます。

また日眼女の厄年への心配については、日本中に巻き起こっていた念仏信仰のブームに流されることなく、釈尊の仏像を造立した供養によって、厄年に起こるとされる災いを払いたいという願いがかなうだけでなく、現世はもとより来世までも絶対的幸福に包まれると日眼女を讃えられます。

今回の拝読御文は、日眼女が釈尊の木造を作ったことに関連して、法華経を信仰することの功徳の大きさをご教示くださっている箇所です。

どこまでも温かい日蓮大聖人の日眼女への激励をともどもに拝して参りましょう。

解説

まず「譬えば頭をふればかみゆるぐ」とあります。

大聖人は、どうか日眼女に伝わって欲しいと、様々な譬えを用いて信心の本質を紐解いていらっしゃるように思います。

女性である日眼女に、まず「頭を振れば髪の毛が揺れる」という譬えで表現されたことに、深いお考えがあるのではないでしょうか。

もちろん一部の男性については髪がほとんど揺れなかったり、揺れる髪もなかったりしますが、長い髪があれば、頭を動かせば髪が揺れるのは間違いありません。

大事なことは、髪の毛があるかどうかではなく、髪の根本である頭が動いているかどうかなのです。

続く御文に、「心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし」との仰せの通り、根本となるものが動いたとき、その影響は必ず現実に形となって表れるということです。

これを現証と呼ぶこともできるかと思います。

根本にあるものをゆり動かしたならば、その影響は現証となって現れる。

続く「教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき」とある通り、釈尊の木像を供養した日眼女は、必ず、その加護を受けることができる。

 

ここで「教主釈尊」について少し説明を加えますと、日眼女が釈尊の木像を供養したので、そのことを讃えるために「教主釈尊」と表現されていますが、この教主釈尊とは、私たちにとっては「御本尊様」と置き換えて読むべきでしょう。

私たちの信仰の根本は、日蓮大聖人の仏法であり、南無妙法蓮華経のご本尊です。

さらにその意味を考えるならば、それは私たち自身の中に備わっている「仏界の生命」のことをおっしゃっていると理解することもできます。

大聖人は「教主釈尊」すなわち、私たちの仏界の生命を「うごかし奉れば」と表現されています。

私たちの信仰は、じっと黙っていてもその功徳を得ることができません。

うごかし奉る」ことが、功徳を得るための秘訣とも言えるでしょう。

ご本尊を揺り動かし、自身の仏界の生命をたたき起こすことで始めて、草木を揺るがし、水を騒がすことも可能となるのです。

諸天善神に護られたいと願って、諸天善神に対して祈っても仕方ありません。

すべての菩薩、諸天善神の根本は南無妙法蓮華経です。

「教主釈尊」も南無妙法蓮華経によって成仏しました。

私たちは、根本たる南無妙法蓮華経のご本尊に強盛に祈ることで、自身の仏界の生命を揺り動かし、諸天善神を揺り動かすことができるのです。

大地がそこにあるだけでは水が騒ぐことはありません。

大地を揺るがすような、全身全霊の本気の信心によって、水が騒ぎはじめる。

そうやって水を騒がせることができないとすれば、私たちの信仰に意味はありません。

実際に自分の人生を切り開くことができるからこそ、私たちの信仰は偉大なのです。

日蓮大聖人の仏法は、人間を超越した存在にお願い事をして、こっそり叶えてもらうような“おすがり信仰”ではありません。

私たちは、南無妙法蓮華経のお題目で、自分の幸福を自分で勝ち取っていけるのです。

池田先生は次のように語っています。

「妙法の祈りの力は計り知れない。一切をより良く変えゆく根源の力用である。小さく推し量っては損をする。広布の大願を起こし、大きく強く、具体的に祈り、行動するのだ。友の幸福と世界の安穏を祈念する題目は、相手の法性に必ず届き、生命の奥底をも変革できる。今日も強盛な祈りから勇んで価値想像を!」

まとめ

私たちが、これから直面する戦いには、苦労と苦悩があり、時間もお金もかかることがあるでしょう。

しかし、私たちが勇気の対話によって大地を揺らし、水を騒がせて、大きく前進したならば、その功徳は計り知れません。

私自身、無い知恵を絞って、無い勇気を振り絞って、自ら行動を起こして、諸天善神を奮い立たせる戦いをしてまいります。

さあ、私たちは、栄光の完全勝利に向かって、御書を拝し、お題目をあげて、さらにさらに、日々前進してまいろうではありませんか。

-座談会御書講義
-

© 2025 御書研鑽しよう会