法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。
法華経を信じる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔から今まで、聞いたことも見たこともない。冬が秋に戻るということを。(同じように)今まで聞いたことがない。法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを。経文には「もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない」(法華経方便品第2)と説かれている。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「妙一尼御前御消息」は、日蓮大聖人が54歳の時、身延から鎌倉に住む妙一尼に与えられたお手紙で、大聖人が流罪地の佐渡からご赦免になって一年ほど後のことです。
妙一尼とその夫は、大聖人門下への弾圧の際に所領を没収されるなどの難を受けましたが、法華経の信仰を貫き通します。
しかし残念ながら、妙一尼の夫は、大聖人が佐渡流罪を赦免される前に亡くなってしまいました。
しかも、残された妙一尼は、体が強くありませんでしたし、病気の子供をかかえておりました。
そうした厳しい状況にありながら、妙一尼は、佐渡へ身延へと使いのものを送って、大聖人にお仕えさせていました。
本抄は、妙一尼が大聖人に「衣」御供養したことに対するご返信です。
大聖人は、この健気な妙一尼を徹底して励まします。
妙一尼の置かれている環境は、まさしく冬のような逆境でした。
大聖人は妙一尼に「絶対に幸せになってほしい」との思いから、本抄で全魂の激励を重ねられており、一文一句から大聖人の思いが伝わってまいります。
本抄の冒頭で、夫が亡くなる時に、どれほど深く、残された家族のことを気にかけていたことであろうかと、夫の臨終の時の気持ちを再現するかのように認められています。
妙一尼は、自分や家族を見守ってくださる大聖人のお心に触れて、“大聖人はすべてわかってくださる”という大きな安心感に包まれたことでしょう。
また、せめて、夫が今まで生きていたならば、大聖人が佐渡から赦免になったことや、蒙古襲来の予言が的中したことをどれほど喜ばれたことでしょうか、とも言われています。
その上で、大聖人が流罪されたと言っては嘆き、大聖人の予言が的中したと言っては喜ぶ様は、現実の出来事に一喜一憂する「凡夫の心」であると仰せになります。
法華経の信心を貫いた人は絶対に成仏できるのであり、所領を没収されながらも信心を貫き通した妙一尼の夫の成仏は間違いありません。
今回拝読する箇所は、まさにその成仏の要となる有名な一節です。
世界中に希望を広げる大聖人のご金言を共々に学んでまいりましょう。
解説
始めに「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」とあります。
春を迎える前には、必ず「冬」を越えなければなりません。
私たちは日蓮大聖人の仏法によって、三障四魔と戦い、宿命転換していくことで、この身のまま生命を仏と開くことができます。
信心によって春を迎えるためには、試練という冬を越えるのが道理です。
「法華経を信ずる人は冬のごとし。」との仰せの通りに一切の宿命と戦い、乗り越えた先に、「冬は必ず春となる」という成仏の軌道があるのです。
「いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。」とある通り、冬は春となり、秋に逆戻りすることはありません。
これは誰も動かすことのできない自然の法則です。
「いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。」とある通り、同じように、妙法を受持しきった人が仏になれないことはありえないのです。
「経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。」とあるのは、この法則が法華経に説かれた仏のお約束であるという証明です。
大聖人が教えてくださっている信心で「必ず幸福になれる」ということをあらためて強調してくださっている箇所です。
「冬は必ず春となる」を詳しくいえば、「信心で試練を勝ち越えたなら必ず仏となる」という意味になります。
本抄をいただいた妙一尼も、まさに、夫に先立たれ、病の子供を抱えた、大変厳しい状況でした。
ここで大事なのは、冬があるからこそ春の喜びがある、ということ。
「冬のごとき信心の戦い」があってこそ「勝利の春」に歓喜できるのです。
法華経を持つ人にとって、試練の冬は、必然です。
たとえば、桜の花は、花の蕾のもとである花芽が夏までに作られ、秋には一旦休眠状態になります。
この花芽が眠りから覚め、開花する条件こそ、冬の寒さなのです。
「冬」には、もともと持っていた力、眠っていた可能性を目覚めさせる働きがあります。
試練の冬に耐えて戦い抜くからこそ、勝利の花を開かせることができる。
逆に、冬の時期に、厳しい寒さがなければ、開花が遅れ、花が不揃いになることもあるそうです。
必ずくる春に向けて、冬の厳しい戦いに挑む中に本当の勝利がある。
法華経の信心は「冬」のようなものです。
ちょっと寒そうだからといって、部屋をあったかくして、一歩も出ないもんね、なんて言っていたり、モコモコに着込んで、歩くのも大変というような戦い方では、もしかするときちんと花が咲かないかもしれません。
鍛錬の冬に挑戦する勇気を出していくことで、私たちは素晴らしい春へと、前進していけるのです。
池田先生はつづっています。
「仏の眼から見れば、誰人にも幸福になる権利がある。誰もが、歓喜踊躍の人生を送ることができる。いわんや胸中の妙法を涌現する方途を知っているのが、日蓮仏法を持った私たちです。ゆえに私たちには、幸福になる権利があるだけでなく、真の幸福を万人に開いていく大いなる使命もあるのです。『冬は必ず春となる』とは、『信心の試練を勝ち超えた凡夫は必ず仏となる』ということです。本来、誰もが胸中に仏の生命をもっています。それを開き現していく人生の軌道に入った大聖人門下が成仏できないわけがない、との獅子吼が轟いてきます」
まとめ
池田先生は、どの御書の一節でもいいから、本当に身で御書を読んでいきなさいとご指導されたことがありました。
悩みながら、もがきながら、深く心に刻み、「この御文が、私の人生を変えた!」と言えるように戦いなさいという意味だと思います。
「法華経を信ずる人は冬のごとし。」この一節を読みきって、私は勝った、と言えるように、勇気を奮い起こして戦ってまいる決意です。
私たちは、ただじっと春を待つだけではなく、師匠池田先生と共に、戦い切って、絢爛たる春を、ともどもに健康で事故なく迎えてまいりましょう。