座談会御書講義

座談会御書「異体同心事」講義(2020年11月度)

日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定 法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし

日本国の人々は、多人数ではあっても体同異心であるから、何事も成就することは難しい。日蓮の一門は異体同心であるから、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は広まるであろうと思うのである。悪は多くても一善に勝つことはない。例えば、多くの火が集まっても一水によって消えてしまう。この一門もまた同様なのである。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「異体同心事」という御書は、御述作の年月や、送られた人が不明です。

また、この御書は前半の異体同心の仰せと、後半の蒙古襲来の仰せについてが、内容的に直接関係していないことから、もとは二つの御書だったのが後に伝わる間に錯覚して一つになったのではないかとも指摘されております。

今回は、この御書の前半部分にある「異体同心」についての教えを拝して参ります。

この御書の前半に限っていえば、静岡県の熱原の地で行われていた大聖人門下への弾圧が「熱原の法難」に発展していく時代背景であり、権力からの迫害という大難を乗り越えていく要諦として「異体同心」の団結を強調された御書であると拝することができます。

つまり、眼前に迫る厳しい難に対して、魔を打ち破る鍵は「信心の団結である」と明快に教えられているわけであります。

では、その信心の団結とはどのようなものか。

大聖人は「異体同心」と表現されました。

「異体」とは、それぞれの個性、性別や年齢、職業や立場等が異なることで、「同心」とは目的観や価値観が同じであることです。

いわゆる「一心同体」という表現ではなく「異体」「同心」と仰せられているところに甚深の意味を拝することができます。

もちろん「同心」といっても、一人一人の個性を殺すことではありません。

異体同心は決して束縛や画一化による団結ではなく、同じ目標に向かって一人一人の生命を開花させることです。

一人一人の可能性が最大限に発揮されたときに、はじめて異体同心が完成すると言ってもいいでしょう。

広宣流布を進めていく上で最も大事なことは異体同心の団結です。

信心の団結なしに、法華経が弘まることはありません。

今回の拝読御文は、そのことを端的に表現されている重要な御文です。

異体同心の重要性を一緒に学んで参りましょう。

解説

始めに「日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし」とあります。

体同異心とは、表面的には同じ行動をしているようでも、一人一人の心がバラバラで一体となっていないことを言い、まさに異体同心の反対の状態です。

この体同異心の状態であれば、例えどんなに大勢であったとしても、何事もなすことができない、との仰せです。

「日本国の人人」と仰せになっているのは、日蓮大聖人に対して反発をしていた法華経に帰依しようとしない人たちのことを指しています。

しかし、強く反発はするものの、確たる信念や哲学があったわけでもなく、反発することに関しては「体同」でしたが、思惑も利害もバラバラな「異心」の状態でした。

当然、「体同異心」では何事もうまくはいきません。

これに対して、「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定 法華経ひろまりなんと覚へ候」と続きます。

大聖人の一門は、異体同心だから、少数でも絶対に勝利して、広宣流布は必ずできるとの御断言です。

広宣流布の師匠に心を合わせる異体同心があれば、人数の多い少ないは関係ありません。

創価学会第二代会長の戸田城聖先生は、小説人間革命の中で、団結についてこのように述べられています。

「さぁ、団結しよう、と口でいくら言ったって、ばらばらな人の心というものは、容易に団結するものではない。たとえば、一升瓶の酒があったとする。君たち男どもは、酒を飲もうということにおいて、たちまち見事に団結するだろう。一升瓶の団結だ。また婦人部や女子部になると、ここにデコレーションケーキをでんと置いてみたまえ。たちまち食べようということに関しては、喜び勇んで団結する。しかし、酒を飲み干し、菓子を食べてしまえば、その団結は消えて、また元の、ばらばらの心になる」

そして戸田先生は結論として「創価学会のこれまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何もなかった。異体だが、同心とする者の団結です」と仰っています。

この「信心の団結」の精神を受け継いで世界広布を実現してくださっているのが第三代会長池田大作先生です。

師弟不二と異体同心は車の両輪の関係にあります。

一升瓶やデコレーションケーキの団結ではなく、師匠と心を合わせる師弟不二の精神がなければ、正しく「異体」を「同心」とすることはできません。

師弟不二の実践と異体同心の団結なくして、広宣流布は成就できないのです。

続く御文には「悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし」とあります。

「一善」と仰せになっているのは、大聖人の一門のことです。

どれほどの深い闇も一善たる太陽が昇れば、全て消滅してしまう。

どんなに悪が分断を企んでも、一善による異体同心の連帯が破れることはありません。

多くの火を集めたところで水をかぶせれば、たちまち消え失せるのと同じです。

そして異体同心の哲学を実践し、勝利の歴史を築いてきたのが創価学会の歴史です。

つまり現代の「一善」、「一門」とは、創価学会のことなのであります。

池田先生は綴っています。

「『異体同心』こそ、広宣流布の要の中の要である。人類が夢見た人間共和の最極の連帯を、我らは築いているのだ。いかなる魔性も、創価の『一善』の前進を阻むことは断じてできない。人数ではない。師弟誓願の祈りで異体を同心とし、金剛不壊の団結で突き進むのだ。どんな逆境もはね返し、民衆の正義の凱歌を轟かせようではないか!」

まとめ

全ての学会員は一人ももれなく、広宣流布に邁進する使命を持った人材です。

さまざま状況、厳しい環境にあっても「悪は多けれども一善にかつ事なし」の御金言を拝しながら、歯を食いしばって、共々に手を取り合いながら、前進し続けていきたい。

そして我々池田門下は、創価学会創立90周年から100周年に向けて、師弟不二と異体同心の誓いを胸に、連戦連勝の10年間を華麗にスタートさせて参ろうではありませんか。

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