「中務三郎左衛門尉は、主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねも、よかりけり、よかりけり」と、鎌倉の人々の口にうたわれ給え。あなかしこ、あなかしこ。蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは、心の財をつませ給うべし。
「中務三郎左衛門尉は、主君に仕えることにおいても、仏法に尽くすことにおいても、世間における心がけにおいても、素晴らしい、素晴らしい」と鎌倉の人々の口にうたわれていきなさい。蔵に蓄える財宝よりも身の財がすぐれ、身の財よりも心に積んだ財が第一である。この手紙をご覧になってから以後は、心の財を積んでいきなさい。
背景と大意
今回皆さんと学んでまいります「崇峻天皇御書」は、日蓮大聖人が56歳の時、身延の地で認められ、中心的門下の代表選手である四条金吾に与えられた御書です。
題号となっております崇峻天皇とは、軽率な言動のために身を滅ぼしてしまった天皇のことで、本抄の中で四条金吾の短気を戒めるために崇峻天皇の例を引かれているためです。
また、別名を「三種財宝御書」といい、大変有名な3種類の財宝について述べられた御文があるためで、今回拝読する箇所が、まさにその内容となっております。
この御書を受け取った当時の四条金吾は、実はかなり厳しい苦境の中にありました。
きっかけは金吾が主君である江間氏を折伏したことにあります。
主君というのは、武士にとってもっとも重要視すべき相手であって、逆らうことも、裏切ることもできない、絶対的な存在です。
その主君である江間氏は念仏を信仰していて、極楽寺良観という僧侶を尊敬していました。
この極楽寺良観は日蓮大聖人に雨乞い対決で負けて以来、大聖人を目の敵にしておりまして、様々な嫌がらせをしてきていました。
要するに江間氏を折伏するということは、金吾にとってギリギリの命懸けの行為だったわけです。
結果、その後、江間氏は金吾を遠ざけるようになります。
そうでなくても、同僚たちから陰口をたたかれ、命さえ狙われていたんです。
さらに、大聖人の門下が極楽寺良観の息のかかった天台宗の僧侶を散々論破するという出来事がありまして、その腹いせに、論破されたんじゃなくて、四条金吾が武器を持って暴れ回ったんだという、デマを流されてしまいます。
極楽寺良観を尊敬している江間氏としては、そのデマを信じてしまうわけなんです。
ついに江間氏は金吾に対して「法華経を捨てないなら、所領を没収する」と迫ってきます。
この所領没収とは、要するに収入源を断たれることであり、事実上見ぐるみを剥がされるに等しい、一家存亡の危機だったわけです。
それでも金吾は迷うことなく法華経を捨てないと腹を決めました。
すると、わずか数か月の間に江間氏が重い病気にかかります。
そこで医術の心得のあった金吾が治療に当たることになるのですが、まさに、一発逆転、主君からの信頼を取り戻す大チャンスとなりました。
その報告に対するお返事が本抄であります。
本抄で大聖人は金吾に対し、心を引き締め、身を慎むよう、また、軽率な行動を取らないようにと厳しく戒められます。
金吾が信頼を回復するということは、周囲からさらに嫉妬されて、身の危険にさらされるということでもあるからです。
大聖人のご指導の内容はとても具体的です。
常に一人になってはいけないとか、交流を深めるべき人は誰と誰かとか、江間氏の家での振る舞い方、服装の色柄まで事細かに指示されます。
加えて「短気な人を諸天は護らないと知りなさい」「それでもあなたは短気だから私の言うことを聞かないでしょう」と四条金吾の短気を何度も指摘されます。
そして最後に、軽はずみな言動で身を滅ぼした崇峻天皇の例を上げて「人としていかに振る舞うか」がどれほど大事かということを述べられて本抄を締めくくられました。
拝読御文は、人としての振る舞いの根幹とも言える価値基準について述べられた重要な箇所です。
共々に、仏法を芯に据えた最高の生き方を学んでまいりましょう。
解説
まず、「中務三郎左衛門尉」とありますのは四条金吾のことです。
四条金吾が、根本的に勝利するための指標がこの先に書かれています。
具体的には、「主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねも、よかりけり、よかりけり」です。
「主の御ためにも」とは、主君との信頼関係の再構築です。
現代でいえば、職場などの社会でのあり方でしょう。
「仏法の御ためにも」とは信仰者としての実践です。
広宣流布のための活動においての振る舞いのこと。
そして「世間の心ねも」とは世間からの信用であり、縁する人々、出会った人々にどう信用されるかという点です。
この三つの勝利を勝ち取っていくことこそ、仏法者の勝利の実証の姿として重要な指針と言えるでしょう。
そしてその勝利の証として、周囲の人々が「よかりけり、よかりけり」と賞讃せずにはいられないような、人間性、人の振る舞いをなしていかなければなりません。
次に「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは、心の財をつませ給うべし」との御文について説明します。
「蔵の財」とは、物質的な財産のこと。
「身の財」とは、健康や身につけた技能、才能。
「心の財」とは、一面から言えば、「心の豊かさ」のことであり、さらに根本的には「信心」、また信心によって磨かれる「生命の輝き」のことです。
大聖人は明確な価値基準として、心の財が最も重要な財であり、それこそが人生の目的であるとご教示されています。
もちろん蔵の財なしに、生活はできません。
また身の財をないがしろにするのも充実した生き方とは言えません。
根本を「心の財」とした時に、実は「蔵の財」も「身の財」もその真実の価値を正しく発揮することができるのです。
池田先生はこの御文を拝して次のようにつづられています。
「周囲から『よかりけり』と賞讃されることは、仏法者としての『人間性の力』以外の何ものでもありません。『心の財』の力があるがゆえに、人々から信頼され、模範の存在として高い評価を得る。仏性が人間性の輝きとして現れ、その素晴らしさが、信心をしていない人々の心をも打っていく。『あの人は、どこか違う。輝いているものを持っている』という信用を得ることが、仏法の確かな実証です」
まとめ
私たちは、心の財を積み上げ、世間の目からも「よかりけり」と賞讃される人間性を発揮して、本年も堂々と広宣流布の前進に打って出ようではありませんか。