千里の野の枯れたる草に蛍火のごとくなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草、十・百・千・万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候。小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし。
千里の野の枯れた草に、蛍火のような火を一つ付けると、たちまち一草・二草・十草・百草・千草・万草に燃え広がって、十町・二十町の草木は、一度に焼け尽きてしまう。竜は一滴の水を手に入れて天に昇ると、三千世界に雨を降らせる。小善ではあっても、法華経に供養されるなら、その功徳は、これと同じように大きいのである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「新池殿御消息」は、日蓮大聖人が58歳の時、身延の地で、静岡県の新池さんと言う方に宛てて送られたお手紙です。
新池さんはお子さんを亡くしてしまい、そのお子さんのためにと、米三石を供養したことに対する御返事です。
米一石というのは1合の1000倍のことで、人ひとりが1年間食べられる量と言われています。
三石という量のお米を供養として届けたという新池さんの思いが少しわかる気がしますよね。
本抄をいただいた新池殿については、詳しいことはわかっていませんが、静岡県に住む鎌倉幕府直参の武士とされており、日興上人によって入信して、妻の新池尼とともに純真な信心を貫いていたようです。
本抄の内容は、新池殿が静岡県から身延の日蓮大聖人のもとにお米の御供したのに対して、法華経に供養することの偉大な功徳について述べられたものです。
冒頭には、最愛の子が必ず成仏するようにお題目を唱えたとされ、新池殿が険しい道を越えて、はるばる身延の大聖人のもとを訪れたことは、大変に宿縁の深いことであると、その志をほめられています。
実はこの時、大聖人は体調がすぐれず、病魔と戦っておられました。
本抄の末尾には、「申し上げたいことは多々あるが、このほど風邪をひいて苦しいから、これで留めおく」と記されており、決して軽くはないであろう御容体をおしてまで、弟子を励まそうとされていたと推察されます。
弟子からのご供養に対して、全力の励ましを送ろうとされる大聖人の姿から、新池殿も師弟不二の深い思いを感じたことでしょう。
今回拝読する御文は、本抄の冒頭の部分、法華経に供養することの功徳について、わかりやすい例えを用いてご説明されている箇所です。
ともに、妙法のために真心を尽くす幸福を学んでまいりましょう。
解説
はじめに「千里の野の枯れたる草に蛍火のごとくなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草、十・百・千・万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ」とあります。
広々とした野原の枯れた草に小さな小さな火をつければ、たちまち広大な範囲の草木が焼け尽きてしまうのは、道理です。
ここでいう道理とは、原因と結果の関係によるものです。
例え小さな火が原因であっても、その対象物によっては大きな結果が生まれます。
もし火をつけた先が、濡れた草だとしたら、別の結果となったでしょう。
次の「竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候」との仰せも、小さな原因が大きな結果を生み出すことを別の例えで表現されたものです。
これらの例えが何を表しているか。
それは「小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし」の一文です。
供養した米三石が小善だと言っているのではなく、小善ですら大きな結果を生むのだから、新池殿のご供養がどれほどの功徳となるか計り知れないと仰せなのです。
もちろん、ここで言う供養とは、財産や高価な品物を捧げることだけを指すのではありません。
時間を使い、労力を使い、広布のために行動すること、そのものが供養にほかなりません。
一見「小善」と思えるような行動であっても、広布のための行動であれば、大きな結果につながるとのご教示と拝されます。
学会活動は、どこまで行っても、自分の幸福のため、人の幸福のために行うものであり、正しい行動すれば、正しい結果が出るのが道理です。
1週間に500円ずつでも貯金すれば一年で52週間あるので、2万6000円貯まります。
2万6000円でオシャレなお洋服とか化粧品を買ってしまえば、ちょっと小綺麗にはなれますが、残念ながら、それほど大きな結果出ませんよね。
でも、このお金を真心で広布のために使うならば、その意味は大きく変わります。
たかが小善かもしれませんが、それをどこに使うかで結果が違うのです。
池田先生はつづられています。
「私どもは、法のため、人のため、広宣流布のために、日々、懸命に行学に励んでいる。その真心の信心が、しんしんと降り積もる雪のように、わが身の善根とならないはずがない。『信心』強き人は、最後は必ず勝つ。必ず栄えていく。三世永遠に、無量の福運につつまれ、物心ともに、幸福に満ちみちていくのが仏法である。そうなるに決まっているのが、信心なのである」
まとめ
私たちは、日々学会活動に勤しむ、まさに信心強き人です。
その点で、私たちの人生が福運に満ちていくことは、大聖人がお約束です。
現実世界で生きている私たちにとって、本年もいろいろなことがあった一年だったはずです。
しかし、いろいろあった中ですが、いろいろあったからこそ、この一年間の福運に心から感謝しようではありませんか。
そして、明年「青年・凱歌の年」を縦横無尽に戦い抜くべく、朗らかに挑戦の新年をともどもに迎えてまりましょう。