寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし 本覚のすみかを離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ 只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ 他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
久遠の仏の住む永遠の仏国土でないなら、どこであっても皆、苦しみの世界である。生命本来の仏の覚りの境地を離れて、何が楽しみとなるだろうか。願わくは「現世は安らかであり、来世には善い所に生まれる」と仰せの妙法を持つこと、それのみが、この一生の真の名誉であり、来世の導きとなるのである。ぜひとも全精魂を傾けて、南無妙法蓮華経と自身も唱え、他の人にも勧めるがよい。それこそが、人間として生まれてきたこの一生の思い出となるのである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります御書は、「持妙法華問答抄」と申します。
その名のとおり、「妙法蓮華経」を「持つ」と、どうなるのか?
ということを御書の王道パターンであります「問答形式」で教えていただいている御書です。
問答は全部で5つございまして、たとえばその一つ目には「いかなる法を修行してか、速やかに仏になり候べき」とあり、それに対して「一大聖教の中には法華ひとりすぐれたり」とお答えになります。
そのあとも、それを疑ってみたり、反論してみたりして問答が続きますが、簡単に言いますと、「すべての人が成仏するための法とは何か?」という疑問に、「それは法華経しかない」と答える問答が展開されてまいります。
そして、5番目の問答では「じゃあ、その法華経はどのように修行すればいいのか」という問いに、「信心こそがもっとも大切です」とお答えになり、逆に、「疑いを抱けば仏の力も及ばない」ということを教えてくださいます。
そのことをこの御書ではこのような譬えで表現されています。
「崖の下に人がいて、一人ではどうやっても上に上れない。それを崖の上からロープを下ろしてあげて引き上げようとしているのに、上にいる人の力やロープの強さを疑って、上に上ろうとしないようなものだ」と。
仏の思いとしては、常に、すべての人を成仏させたいと願っている。
そう思って、上からロープをたらしているのに、衆生がその手をとろうとしなければ、救い上げることも出来ないという道理です。
この、常に衆生を救おうとする仏の思いを大聖人は「毎時作是念の悲願」と表現しています。
毎時作是念とは、勤行のときに最後の方にでてくる、例の、あれのことですが、意味は、仏は常にこのことを念じている、です。
このこと、とは何をさすのか。
「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」と続きます。
意味は、仏は常にこのことを念じている。すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道にはいらせ、速かに仏身を成就させることができるだろうか。
つまり、仏の救いの手は常にそこにあるのです。
ただ、それを信じるか信じないか。それこそが一番大事なことなのであります。
また、「法華経こそが第一の法なのだから、それを広めようとする人も第一である」ということを強調されています。
法がどんなに素晴らしくても、勝手に広まることはありません。
その人のために一生懸命に祈って、仲良くなって、悩み事も聞いてあげて、たまにはご馳走もして、それで折伏して、初めて法が広まるわけです。
だから、この信心が素晴らしいということは、それを広めようとする私たちも「素晴らしい存在」なのであります。
そのことが、どんな世間的な名声よりも価値が高いことはいうまでもありません。
最高の法を広める人生こそ、最高の生き方なのです。
全体を要約すると、どうせ、短くて貴重な一生を過ごすのなら、しょうもない名聞名利にとらわれるのではなく、この最高の信心を持ち続けるという最高の生き方をしませんか? という御書でございます。
解説
まず、「寂光の都ならずはいずくも、みな苦なるべし」、とあります。
われわれが生きているこの現世は、まさに久遠の仏の住む永遠の仏国土です。
どこか、われわれの住む世界と違うところに、仏の世界があるわけではありません。
寂光の都だからこそ、苦だけではなく楽しみがあるのです。
では、その楽しみとは何か?
「本覚のすみかを離れて何事か楽しみなるべき」、とあります。
生きることの楽しみとは、自身に仏界の生命を開くことでしかない、と解釈できます。
人生には、さまざまな苦しみや難、宿業が、次から次へと出てまいります。
それらを広い境涯で悠々と乗り越えていく。
私たちにはそんな痛快な人生を送ることができるのです。
「願わくは現世安穏・後生善処の妙法をたもつのみこそ、ただ今生の名聞・後世の弄引なるべけれ」。
現世安穏・後生善処とは、法華経の経典の御文のひとつで、法華経を信受すれば、現世は安穏な境涯を築くことができ、来世は福徳に満ちた境涯で生まれるという意味です。
では、今世だけでなく、来世をも光照らす「最高の生き方」とはどんな生き方か?
それは、「妙法をたもつ」という生き方のほかにはありません。
では、「妙法をたもつ」とは、具体的にどのような実践なのか?
「すべからく、心をいつにして、南無妙法蓮華経と我もとなへ他をもすすめんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」。
「すべからく、なになに、べき」、とは、当然とか、是非とも、という意味です。
「心をいつにして」、とは、異体同心の団結のことをさしているものと思われます。
すなわち、師匠と心を合わせ、同志と団結し、そして、「われもとなえ、他をもすすめん」ですから、自分自身が唱題にとりくみ、友人にも語っていく、「自行化他の題目」の実践であります。
「のみこそ」とあるのは、「それだけしかない」という断言であり、「今生人界の思いでなるべき」とあるとおり、私たちの生涯にわたる最高の思い出とは、弘教拡大に挑戦し、戦い抜いたその実践のことなのであります。
もっとありていに言えば、「折伏戦という流れのときに、みなと一緒になって、徹底して折伏に取り組む」その生き方こそが、最高の人生である。
ということになります。
池田先生は、「この世に生まれて、一体、何人の人を幸福にしたのか。何人の人に『あなたのおかげで私は救われた』と言われる貢献ができたか。人生、最後に残るのは、最後の生命を飾るのは、それではないだろうか」と語られています。
また、「地味であったとしても、広宣流布のために動いたこと、語ったこと、苦労したこと、戦いきったことは、時がたてばたつほど、深い光を放っていく」とご指導くださっています。
まとめ
私自身も、先生のご指導のままに、目の前の一人のために、「あなたのおかげで救われた」と言われるような振る舞いを目指して、地道に動き、語り、戦いきってまいる決意です。
さあ、今こそ今生人界の思い出を作る千載一遇の大チャンスです。
唱題に励み、友との真心の対話を重ねながら、「毎時作是念」の思いで、ともどもに永遠の金字塔を打ち立てて参りましょう。