座談会御書講義

座談会御書「日眼女造立釈迦仏供養事」講義(2019年4月度)

譬えば頭をふればかみゆるぐ 心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき

たとえば、頭を振れば、髪が揺れる。心が働けば、身体が動く。大風が吹けば、草木も揺れる。大地が動けば、大海も荒れる。同じように、教主釈尊を動かせば、揺るがない草木があるだろうか。騒がない水があるだろうか。

背景と大意

今回学びます日眼女造立釈迦仏供養事は、日眼女、すなわち、四条金吾の奥さんに与えられた御書です。

そのとき日眼女は37歳。

女性の厄年とされている年齢で、その厄年に起こるとされている災いに備えて、日眼女は大聖人に供養をします。

その供養について大聖人がお返事をしたためたのがこの御書です。

その中に日眼女が「教主釈尊、一体三寸の木像を造立して供養した」と書かれており、そのことから「日眼女造立釈迦仏供養事」と呼ばれています。

言うまでもなく、私たちの信仰の対象に絵や木で作られた仏像は存在しません。

大聖人が御図顕された曼荼羅があるだけです。

たとえそれが釈迦仏であったとしても、仏像を作ることは謗法になってしまいます。

しかし、大聖人は日眼女の供養に対して「日本一の女性である」とおほめになられます。

謗法や供養といっても、表面的な形式が大事なのではありません。

大事なのは信心の姿勢なのです。

もし日眼女が、釈迦像を作ることが謗法であると知っていて供養したとなれば大変なことですが、純粋に供養になると信じていたからこそ、そこには広大無辺の功徳があるのです。

あるさびれた土地に徳勝童子と呼ばれる子供が住んでおりました。徳勝童子は仏に土の餅を供養して仏にたたえられ、生まれ変わってアショーカ大王となり、やがて成仏したとされる説話があります。

たとえ一握りの土の魂であっても、そこに“正しいものに対する純粋な供養”の姿勢があれば、大きな福運を築くことができるのです。

本抄で大聖人は、「あらゆる仏の根本である釈尊を揺り動かす信心があれば、かなわないことなどない」というご確信を述べられ、日眼女はその釈尊の像を造立した功徳によって、すべての神々や諸仏から守護されるとご断言されます。

そして、すべての経の中の王である法華経だけに女人が成仏すると説かれていることを明かし、日眼女の成仏が間違いないことを宣言されます。

また、日本中の人が信じているという念仏信仰のブームに流されることなく、釈尊の仏像を造立した供養によって、厄年に起こるとされる災いを払いたいという願いがかなうだけでなく、現世はもとより来世までも絶対的幸福に包まれるだろうと日眼女を讃えられる、という御書です。

今一度大胆にまとめますと、「すべての経の中の最強最高の法である法華経に供養するならば、諸天善神の守護を受けて、今世の祈りが叶うだけでなく、来世においても成仏は間違いない」という、日眼女への激励の御書でございます。

解説

まず、大聖人は「譬え」を用いて、私たちにわかりやすいように、ご説明くださいます。

女性の場合、頭を振れば髪の毛が揺れるのは普通です。

一部の男性については揺れなかったり、揺れる髪もなかったりしますが、長い髪があれば揺れるのは間違いありません。

大事なことは、髪のあるなしではありません。髪がないことが問題なのではなく、頭が動いているかどうかが大事なのです。

「心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし」との仰せの通り、根本となるものが動いたとき、その影響は必ず現証という形になって表れるということです。

続く御文に「教主釈尊」とあるのは、日眼女が釈尊の仏像を供養したので、そのことを讃えるために「教主釈尊」と表現されたものです。

この教主釈尊とは、「御本尊様」と置き換えて読むべきでしょう。

さらにその意味を考えるならば、それは自身の中に備わっている「仏界の生命」のことをおっしゃっていると理解することができます。

その自身の仏界の生命を、「動かし奉れば」とあります。

私たちの信仰はじっと黙っていてもその功徳を得ることができません。

まず動かすべきは自分の心です。

そして、ご本尊を揺り動かし、自身の仏界の生命をたたき起こすことで始めて、草木を揺るがし、水を騒がすことができるのです。

すべての菩薩、諸天善神の根本法は南無妙法蓮華経です。

「教主釈尊」も南無妙法蓮華経によって成仏しました。

その根本たるご本尊に強盛に祈ることが、自身の仏界の生命を揺り動かし、諸天善神を揺り動かすことになるのです。

大地がそこにあるだけでは水が騒ぐことはありません。

大地を揺るがすような自発能動的な信心によって、水が騒ぎはじめる。

水を騒がせる、すなわち、自ら諸天善神を突き動かして、人生を切り開いていかなければ、私たちの信仰に意味はありません。

また仏界の生命を揺り動かせば、自分だけでなく人の心すら変えていけるのがお題目の凄さです。

日蓮仏法は、人間を超越した存在にお願い事を叶えてもらうような“おすがり信仰”ではありません。

私たちは、南無妙法蓮華経という最強最高のお題目を全宇宙に轟かせることで、森羅万象を味方につけて自分の人生の幸福を自分で勝ち取っていけるのです。

池田先生は次のよう語っています。

私たちが真剣に祈って、語りゆく言葉が、友の心に響かないわけがない。ゆえに、大きな大きな心で友情を育みゆくことだ。一つ一つの出会いを大切に、確信の対話を勇気凛々と広げゆくことだ。そのすべてが仏縁となって光る。ここに平和創造の道があり、幸福勝利の道がある。

まとめ

このたび皆様が勇気の対話によって大地を揺らし、水を騒がせて、大きく前進した戦いの功徳は計り知れません。

私自身もつい先日、悩みの種であった経済的な問題を大きく転換することができました。

無い知恵を絞って、無いお金を工面して、毎週のように外に打って出る戦いしてくることができた功徳に違いありません。

皆さまに、見守っていただき、背中を押していただき、車を出していただいたおかげです。本当にありがとうございました。

さあ、私たちは、栄光の5・3に向かって、師匠・池田先生のご指導のままに、真剣な祈りと勇気の行動で、さらにさらに、日々前進してまいろうではありませんか。

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