御聖訓に学ぶ勝利の要諦

地涌の本舞台 -御聖訓に学ぶ勝利の要諦-

地涌の本舞台タイトル

「地涌の菩薩」の自覚を持つことこそ、自分の生命に備わっている仏の境涯を開くカギです。

この時代この場所に、そしてこの境遇で戦っている意味を使命ととらえるならば、無限の力を引き出せるのです。

今回は、「地涌の本舞台」をテーマに、大悪大善御書と高橋殿御返事から、今いる場所で戦うことの誇りを学んでまいりましょう。

大悪大善御書

迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか

迦葉尊者でなくても、舞を舞うべきところである。舎利弗でなくても、立って踊るべきところである。上行菩薩が大地から現れた時には、まさに踊り出られたのである。

この御書は、いつ誰に与えられたお手紙なのか詳しく分かっていませんが、「大事には小さな瑞相はなく、大悪が起こったときこそ大善がきたるのである」との御文から、大悪大善御書と呼ばれています。

いま起っている苦難は、正法が必ず広まるという“大善”のための瑞相なのだから、嘆く必要はなく、むしろ、舞を舞って喜ぶべきである、という意味でしょう。

また、迦葉尊者や舎利弗が「舞った」ように、正法に出会ったうれしさ、妙法を広めることができる無上の喜びを表現されたものとも考えられます。

上行菩薩とは末法の妙法流布の使命を託された「地涌の菩薩」のリーダーです。

そのリーダーたる上行菩薩が歓喜に満ちて「をどりて」出現されたのは、地涌の菩薩にとって末法の妙法流布こそ、最高の使命の舞台だったからに違いありません。

そして現代において、自他共の南無妙法蓮華経のお題目を実践している学会員こそ、師匠とともに喜び勇んでこの世に踊り出た地涌の菩薩なのであります。

今、例え困難な状況にあったとしても、「この困難を克服することこそ使命なのだ」と挑戦の祈りと行動を起こしていくならば、舞を舞うように、勝利の実証を示していけるのが私たちの信心です。

今再び、地涌の菩薩の使命を自覚し、満天下に勝利の姿を晴れ晴れと示しきってまりいましょう。

高橋殿御返事

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし

その国の仏法流布は、あなたにお任せします。仏種は縁によって起こる。その故に一乗(法華経)を説くのである。

富士方面にいた高橋さんという方に与えられたお手紙とされていますが、詳しいことは分かっていません。

お米のことについて書かれているので、別名「米穀御書」とも呼ばれています。

日蓮大聖人はこのお手紙を送られた門下に対して、「その国」、すなわち、住んでいる地域の広宣流布の推進を託されています。

一門下であるところの高橋さんに、広布の指揮を”貴辺にまかせたてまつり候ぞ”との仰せです。

この励ましは、一人一人の弟子に「地域広布の主体者」としての自覚を促されたものと拝されます。

「誰かがやってくれる」のではなく、「誰がやらなくても自分がやる」。その全責任を担う覚悟があれば、環境に左右されるのではなく、むしろその環境を自分で作っていくことができるはずです。

私たちこそ、広宣流布を誓って出現した地涌の菩薩です。

であるならば、今おかれている環境も、人間関係も、金銭的な苦労も、すべてに意味があるはずです。

今世でのさまざまな悩みは、すべて自らが妙法の偉大さを証明するために選んだ、舞台装置・装飾に過ぎません。今、生きている場所こそ、使命の天地なのです。

また、本抄では「仏種は縁に従って起る」と仰せです。

仏種、すなわち、成仏のための根本的な原因は、すべての人が持っていますが、その種をはぐくむきっかけとなるのは、妙法を語るという「縁」の働きによるものです。

法を語って広める「人」がいるからこそ、地域の広布が進む。そして、どこまでも「一人」の真剣な祈りと行動が大事なのです。

その「人」、「一人」、とは誰のことでしょうか。

私たちは地涌の菩薩の自覚も新たに、正義を語りぬく対話で、一歩一歩仏縁を広げ、着実に地域広布を進めていこうではありませんか。

まとめ

池田先生は次のように語られています。

「我らは末法広宣流布を誓い合った地涌の菩薩である。この時代、この場所を選んで生まれた使命の勇者だ。その大使命を自覚し、大願に生き抜く青春に、力が出ないわけがない。時代を変えゆく智慧が、湧かないわけがない」

まさに、私たちが今いる場所こそが、使命の本舞台なのです。

一人一人が、自分らしく朗らかに、痛快な勝利劇をつづってまいろうではありませんか。

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