各各 師子王の心を取り出して・いかに人をどすとも をづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり 日蓮が一門は師子の吼るなり
あなたがた一人一人が師子王の心を取り出して、どのように人が脅そうとも、決して恐れることがあってはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。彼らは野干が吼えているのと同じである。日蓮の一門は師子が吼えているのである。
背景と大意
今回学びます聖人御難事は、門下一同、つまり全ての弟子に与えられた御書です。
それでありながら、四条金吾のもとに留めておくように指示されています。
いかにこの御書が特別で重大な意味を持っているか、そのことを踏まえてお話を進めたいと思います。
聖人御難事は、大聖人が数々の大難を受けられたことについてのべられているので、その名がついた御書です。
そしてそれらの難は「法華経の予言」を大聖人がただ一人「真実」のものとした難であることを宣言し、ご自身が末法の御本仏であられる御確信を述べられています。
もう一つ大事なことは、「出世の本懐」を遂げたと仰せになったことです。
「出世の本懐」とは、すなわち「仏がこの世に現れた目的」のことです。
それを「立宗より二十七年を経た弘安二年十月」についに遂げられたとの仰せです。
では、立宗より二十七年目にして、なぜ、大聖人は出世の本懐を遂げたとおっしゃられたのか。
それには重要なきっかけがありました。
それが熱原の法難です。
熱原とは、静岡県の富士方面のこと。その頃、日興聖人が中心となって弘教拡大に取り組んでいた土地で、天台宗の僧侶や信徒などが次々と大聖人に帰依しました。
その熱原で農民信徒が「激しい弾圧」を受けたのが熱原の法難です。
では「激しい弾圧」とはどのようなものか。
熱原の20人の農民信徒は、稲泥棒の濡れ衣を着せられて逮捕され、取調べと言いつつ弓矢で射られるなどの拷問の果てに、首謀者とされた三人、神四郎・弥五郎・弥六郎が首を切られ、残りの17人も住むところから追放されるという、苛烈を極めるものでした。
取調べを行った平左衛門尉頼綱は「念仏を唱えれば許す」と信徒をそそのかしましたが、誰一人として信心をすてる者は出なかったといいます。
これまで二十七年間、大聖人が受けられた難は、大聖人の戦いによって大聖人が受けられてきた難です。
しかし今回、日興上人を中心とする弟子、信者の戦いによって熱原の法難が起こり、末端の農民信徒が命に及ぶ大難を受けたのです。
大聖人は、この不惜身命の門下の姿に、民衆が難と戦うことのできる強い信心を確立したこと確信して、出世の本懐を遂げたと宣言されるのです。
大聖人は、厳しい責め苦にあっている門下に対して、御自身が大難を勝ち超えてこられたことを通して、法華経の行者を迫害するものには必ず罰が現れることを明かします。
そして法華経の行者をいじめる権力者は必ず滅びるのだから、「何も恐れることはない」、「つけいる隙を作らないように信心を強めていきなさい」とご指導くださっています。
さらに、退転してしまった者については、「臆病」、「物覚えず」、「欲深く」、「疑い多き」、の4つの特徴を明らかにし、同じようなことにならないように戒められています。
今一度簡単にまとめますと、「大聖人はこれまで仏の言葉を真実のものにする数々の難を受けましたが、師匠である大聖人が大難を勝ち超えてきたように、弟子の一人一人も必ず勝ち超えることができるのだから、難に負けることなく信心を奮い起こしていきましょう」という御書であります。
解説
まず、「各各」とは、私たち一人一人のことです。
私のことでもありますし、みなさんのことでもある。
つまり、全ての人が「一人称」でこの御書を拝すべきだということではないでしょうか。
次の“師子王の心”とは、一言で表現するならば「仏界の生命」のことです。
師子王とは、まさに日蓮大聖人のことです。
「師子王の心」には、断じて恐れはありません。いつでも勇気が満ちているのです。
そして、その「師子王の心」、すなわち「仏界の生命」を「取り出して」との仰せです。
もちろん、ないものを取り出すことはできません。
「各各」、すなわち全ての人、一人一人、それぞれに備わっているところの「仏界の生命」を出すのです。
「いかに人をどすとも をづる事なかれ」とある通り、どれほどの責め苦にあったとしても、一歩も退いてはならない、との仰せです。
我々が戦いを起こすと、その足を止めようとする魔の働きが、いろんな形で紛らわしくあらわれてきます。
そして魔が狙ってくるのは、自分の心の中にある臆病です。
私たちは、この臆病と断じて戦わなくてはならない。
「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」です。
師子王、すなわち大聖人は、ありとあらゆる難に対して、敢然と戦い抜き勝利されました。
私たちは「師子の子」です。
私たちも、師匠と心を一つにすることで、師匠と同じように戦うことができるのです。
「彼等は野干のほうるなり 日蓮が一門は師子の吼るなり」との仰せのように、魔がいかようにあらわれたとしても、負ける戦いではありません。
「野干」とは、ナベとかヤカンとかのヤカンではなく、卑しい動物のことですが、当然、百獣の王たる日蓮大聖人の一門の敵ではありません。
別の御書(兄弟抄)では「師子に向かって吠える犬は、はらわたが腐ってしまう」ともおおせです。
現に、熱原の法難の首謀者であった平左衛門尉は14年後、屋敷を幕府の軍勢に囲まれて自害します。
しかも自分の長男によって、「幕府に反逆する陰謀」を密告されるというお粗末な最期でした。
また、熱原の農民に矢を放ったとされる次男も自害。父親を密告した長男も佐渡に流罪されて、一族は滅んだのです。
師匠と私たちが心を一つにして戦えば、その「師子王の陣列」に恐れるものは何もありません。
そして私たちの戦いにあだなすものは、初めは何事もないようであっても、最後にほろびないものはないのです。
この大聖人が全信徒にと届けてくださったエールを最高の味方として、「月月・日日」に、前進してまいろうではありませんか。
池田先生は次のように指導してくださっています。
「『師子王の心』とは、『不退の心』です。『負けじ魂』『学会魂』であるといってもよい。難と戦えば仏になれる。そのために『師子王の心』を取り出すのです。信心とは、絶えず前進し続ける『勇気』の異名なのです」
まとめ
私自身、今、目の前の問題に翻弄されるあまり、目の前の戦いがおろそかになりそうな時もあります。
臆病という自分の弱さに負けて、一歩踏み出せない時もあります。
しかし、今から、今こそ、師子王の心を取り出して、ナベやらヤカンやらが吠えているのを勇気の心でなぎ払って、師匠とともに、正義を師子吼する時ではないでしょうか。
さあ、私たちはどこまでも唱題根本に、勇気、忍耐、団結を合言葉に、師匠池田先生と呼吸を合わせ、広布拡大の一歩前進の挑戦を、今日も明日も日々展開してまいろうではありませんか。