法華経と申すは、手に取ればその手やがて仏に成り、口に唱うればその口即ち仏なり。譬えば、天月の東の山の端に出ずれば、その時即ち水に影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし。故に、経に云わく「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」云々。文の心は、この経を持つ人は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。
法華経というのは、手に取れば、その手が直ちに仏に成り、口に唱えれば、その口がそのまま仏である。譬えば、天の月が東の山の端に出れば、その時、直ちに、月の影が水に浮かぶように、また、音と響きが同時であるようなものである。ゆえに、法華経に「もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない者はいない」と説かれている。文の心は、この経を持つ人は、百人は百人全て、千人は千人全て、一人も欠けることなく仏に成るという文である。
背景と大意
今回学びます上野尼御前御返事は、大聖人が59歳の時に身延の地から南条時光の母である上野尼御前に送られたお手紙です。
南条時光といえば、若き青年部のリーダーで、大聖人が身延に入られて以降、親しくご指導を受けていた武士です。
熱原の法難の時にはメンバーを護る戦いで活躍し、大聖人からも「賢人」という尊い称号をいただいています。
そんな南条時光ですが、実は7歳の時に父親を失っております。
母親は健在でしたが、若くして幼い子供を連れて未亡人になってしまったことの苦労は、現代では計り知れないものだったでしょう。
そんな南条家に、ことのほか心を寄せていた大聖人は、お墓参りのために自ら南条家に赴くなど、慈愛を持って接しておられました。
このお手紙は、南条家の母から、時光のおじいちゃんに当たる人の命日とのことで、お米やお芋のご供養が送られてきたお返しです。
この時、時光の母は、このような不安を抱いていました。
それは、時光のおじいちゃんの命日に際して、南無妙法蓮華経ではないお題目をあげる人などがいて、これってもしかして謗法に当たるんじゃないか、という不安です。
大聖人はこのご供養と相談に対して、短いお手紙ながら、本質的に成仏が間違いないことを明確に示されます。
今回の拝読御文は、本抄の冒頭に当たる部分で、法華経の功徳が絶対であることを説かれている箇所となります。
解説
始めに「法華経と申すは、手に取ればその手やがて仏に成り、口に唱うればその口即ち仏なり」とあります。
本抄の冒頭には、南妙法蓮華経が蓮に譬えられていることを示され、桜でもチューリップでもなく、蓮に譬えられている理由は、蓮華は、花と実が同時になるからであると説かれます。
法華経以前の教えでは、修行を積んで、そのあとで仏になると教えていますが、これだと修行の時点では成仏が決定していないことになります。
その点、法華経の教えは、手に取れば、その手が仏になる、口に唱えればその口が仏になると仰せです。
このように原因と結果が同時に現れることを因果俱時といいます。
反対に、成仏の状態である仏界とそれ以外の九界が離れていて、修行したのちに仏界に至るという考えを因果異時といいます。
しかし、よく考えれば、どうすれば、いつ、九界の衆生が、どのタイミングで、どうやって仏界に至ることができるかがわかりません。
因果異時では仏ではない人が仏に成るという道が見えないんです。
しかし、法華経では、そもそも衆生には仏界も九界もそなわっている、と説きます。
元々、仏界がそなわっているから、法華経に触れる、お題目をあげるという原因だけで、触れた人、お題目をあげた人の仏界が呼び覚まされて、成仏にいたるという結果が即座に現れる。
なぜなら、みな元々、仏だからです。
これが、ご本尊を信じて、お題目を唱えるなら世界中の誰もが「即身成仏」できるという「万人成仏」のロジックなんです。
続く御文に「譬えば、天月の東の山の端に出ずれば、その時即ち水に影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし」とあります。
月が出れば、水面には同時に月の影が現れるし、音と響きも同時にあるものです。
因果俱時のお題目をあげるならば、心の水面には月が映り、その音声に即座に仏界が呼び覚まされるのです。
さらに「故に、経に云わく「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」云々。文の心は、この経を持つ人は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり」とあります。
全ての人が、必ず、一人もかけることなく成仏するという、大確信のご教示です。
この言葉が、南条時光のお母さんにどれほど希望を与えたことでしょうか。
また、さらに信仰を深めようと決意したに違いありません。
私たちには、日蓮大聖人の御書があり、池田先生のご指導があり、地区、ブロックの同志がいます。
右を見ても仏、左を見ても仏、お題目をあげれば仏と、実は仏にならない方が難しい状況なんです。
その絶対の確信を本日よりさらに深めてまいりたい。
池田先生は次のようにつづっています。
「広布のために祈り、戦う、今の一念の『因』に、幸福と勝利の『果』は厳然と輝いているのである。ゆえに行動することだ。大目的のために。歩くのだ。民衆のために。同志のもとへ、足を運ぶのだ。妙法を唱え、弘めゆく人には、尊極の仏の生命が涌現する。尊き皆様こそが、妙法蓮華経の当体なのである。華のごとく、わが人生を開き、華のごとく使命の大輪を咲き薫らせていただきたい」
まとめ
さあ、私たちは、大聖人の教えのままに、因果俱時にして絶対成仏のお題目をあげて、友の手を、耳を、口を、次々と仏にしていこうではありませんか。
そして、自らの胸中に尊極の仏の生命を涌現させながら、世界広宣流布の実現に向けて、一歩前進の戦いをして参りましょう。