座談会御書講義

座談会御書「衆生心身御書」講義(2024年11月度)

当世は世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども、心ざしのゆくところ、山中の法華経へ、もうそうがたかんなをおくらせ給う。福田によきたねを下ろさせ給うか。なみだもとどまらず。

今の世は乱れて、民の生きる活力も弱まっている。暇もない時節なのに、強い信心のゆえに身延の山中の法華経へ、貴重なタケノコを供養されました。福田に素晴らしい善根の種をまかれたのでしょうか。その厚い志に涙も止まらない。

背景と大意

今回学びます衆生心身御書は、前後が欠損しているため、宛先など詳しいことがわからないタイプの御書です。

その内容から、佐渡からご帰還された後の身延にいらっしゃった日蓮大聖人に、弟子が供養の品々をお届けしたことに対する御返事ではないかと言われています。

当時の日本は、蒙古襲来の危機によって、国も国民も全てが混乱している状況でした。

このような世相にあって、庶民の暮らしは、これまで以上に当然、苦しいものであったに違いありません。

大聖人は困窮を極めた一人一人の弟子たちに、格段の思いをかけておられたのでしょう。

そんな明日をも知れぬ身の弟子が、一体どれほどの思いで大聖人に供養の品を届けたことでしょうか。

少し先の未来も見通せない、闇に覆われたような当時の日本において、真実の法を説く大聖人こそ、希望の光でした。

だからこそこの弟子は、少しの食料でさえも惜しいような世情にあって、大聖人のもとへ真心からの供養の品を届けたのでしょう。

その弟子に対して大聖人は、供養という「尽くす」行動を賞讃し、「涙も止まらない」と感激を伝えておられます。

師匠を思う弟子の志と、その思いを受けて涙される師匠。

ここに永遠の師弟のドラマがあります。

それでは、尽くす行動が福徳となる信心の因果の法則をともどもに学んでまいりましょう。

解説

始めに「当世は世みだれて民の力よわし」とあります。

当時は、再度の蒙古襲来がいつあるかわからない不安に国全体が覆われているだけでなく、庶民は深刻な飢饉にも見舞われていました。

この世の乱れによって、一番苦しんでいたのが庶民です。

次に「いとまなき時なれども」とある通り、このような状況にあって、人のことを心配している余裕のある者などいません。

誰もが、自分のことを考え、自分を守るので精一杯だったことは容易に想像できます。

続く御文に「心ざしのゆくところ、山中の法華経へ、もうそうがたかんなをおくらせ給う」とあります。

心ざしのゆくところとは、大聖人の身を案じてのこと、という意味でしょう。

山中の法華経へ、とあるのは、身延にいる大聖人を指しています。

また、「もうそうがたかんな」とは、中国の孟宗という人が、冬なのに、母親の大好物のタケノコを手に入れたという昔話になぞらええて、得難いものを手にいれることの譬えです。

大聖人が、「得難いものを送ってくれた」との感動をあらわにしている御文と拝察されます。

現代の、私たちの日々に置き換えてみるとどうでしょうか。

まさに「世間が乱れて」「暇もない」社会です。

タイムパフォーマンス「タイパ」やコストパフォーマンス「コスパ」が大事にされやすい現代において、貴重な時間やお金を、学会活動に貢献しようと尽くすならば、きっと大聖人も「もうそうがたかんなをおくらせ給う」とお喜びいただけるに違いありません。

仕事に家庭、プライベートと、忙しいからこそ、その貴重な時間を何使うかは自分次第です。

時間を使うということは、言い換えれば「命を使う」ことです。

供養を届けた門下にとっては、わずかの食料であっても「自分の命」のようなものだったに違いありません。

その貴重な自分の命を何に使うかによって、意味が変わります。

大聖人は本抄の別の御文で「正しき法・人に尽くせば、その功徳は必ず自身に返ってくる」という仏法の法則を、端的に教えられています。

また、続く御文に「福田によきたねを下ろさせ給うか。なみだもとどまらず」とあります。

大聖人に尽くした行動は、福徳をもたらす原因を積んだことになると仰せで、加えて、その厚い志に涙が止まらないとまで仰せです。

自分のためだけでなく、より大きな目的のために、命を使うと決めれば、その真心に対する功徳は計り知れません。

創価学会やSGIの活動は、全世界の民衆救済のための世界規模の活動です。

皆が時間のないなか、命を使う尊い志と献身で、平和の連帯を着実に広げています。

この「真実の正しき組織」に連なるならば、諸天善神が守らないわけがなく、功徳がでないわけがないのです。

池田先生は次のようにつづっています。

「広宣流布のために働いたことは、すべて自分の『善根』となる。広布の団体・創価学会のために行動したことは、すべて自身の『福徳』となる。仏法には、一切、無駄がない。因果の理法は絶対である。他の世界では“要領”が通用したとしても、仏法の世界では、陰の労苦、目に見えない一念が、そのまま結果となって現れる。ゆえに、だれが見ていようと、いまいと、勇んで行動することである」

まとめ

私たちが「仏法のため」そして「学会と共に」という志で戦ってきた真心の行動は、必ず、福徳につながっています。

タイパもコスパも大事ですが、功徳のない、苦悩に満ちたタイパ、コスパほど、虚しいものはありません。

最高に戦い切った我々が、自由自在の境界を得られないわけがありません。

そう確信して、どこまでも師匠と共に、組織と共に、今日も明日も、世界広布、地域の広布を前進させてまいりましょう。

-座談会御書講義
-

© 2024 御書研鑽しよう会