相構えて相構えて、強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり。信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり。
よくよく心して強盛の大信力を起こして、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、このことである。信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「生死一大事血脈抄」は、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地の佐渡で、最蓮房に送られたお手紙です。
最蓮房は元天台宗の僧侶です。
僧侶というだけあって仏法についての見識が深いので、仏法における重大な問題を日蓮大聖人に質問します。
その質問とは、当時の天台宗で「奥義」とされていた「生死一大事血脈」についてでした。その質問に対して大聖人がお答えになったのが今回の御書です。
ですから、御書全集にしてわずか2ページ分と比較的短い御書なんですが、内容はとてもとても難しいんです。
では、最蓮房の質問、「生死一大事血脈について」とは、一体どのような質問だったのか。
まず、「生死一大事血脈」を分解します。
「生死」とは生きる死ぬという生命の働きのこと。
「一大事」というのは最も大切なことです。
つまり「生死一大事」とは、ごく簡単に言えば、生命にとって、また、成仏にとって最も大事なこと、という意味になります。
「血脈」というのは、仏さまから全ての民衆に正しく大事なことが伝えられていく様を、親から子へ血筋が受け継がれることに例えた表現です。
合わせると「生死一大事血脈」とは、現代の私たちに当てはめれば、「日蓮大聖人の弟子として正しく受け継ぐべき成仏における最も大事なこと」という意味になります。
では、その最も大事な事とは何か?
大聖人はこのようにお答えなさいます。
それは、すべての人を幸福にすることができる「究極の教え」、すなわち「妙法蓮華経」である、と。
そしてその「究極の教え」を弟子が正しく受け継いでいくためにはどうしたらいいか、について、大聖人は「3つのポイント」にまとめて教えてくださっています。
一つ目のポイントが、私たちの命にはもともと仏の生命が「具わっている」ということを信じてお題目をあげる、ということです。
二つ目は、絶対に退転せずに、信心を保ち続けること。
そして、三つ目が、みんなが団結して心を一つに信心に励むことです。
また、生死一大事血脈とは「信心」を奮い起こして南無妙法蓮華経と唱えること以外にはない、ともおっしゃっております。
仏法にとって最大の奥義とも言える「生死一大事血脈」ですが、実は限られた一部の人に特別に授けられるものではなく、最も大事なこととは、お題目をあげることでしかない、とおっしゃられたのです。
「南無妙法蓮華経」という絶対に幸せになれるお題目と「信心の血脈」を、すべての民衆に受け継がせたい、すべての人を幸せにしたい、というのが日蓮大聖人の熱い誓いなのです。
それでは、生死一大事血脈抄の中でも特に重要と言われる日蓮仏法の奥義について述べられた箇所を一緒に学んでまいりましょう。
解説
この一節は、本抄の末尾の一文であり、難しかった全文のまとめと言える部分です。
そのまとめのとっかかりに「相構えて相構えて」とあります。
このように同じ言葉を2回使うのは強調です。
最後のまとめを印象的に伝えたいという、大聖人の意気込みを感じる部分です。
次に、「強盛の大信力を致して」とあります。
この部分こそが、まさに、生死一大事血脈、すなわち日蓮仏法の奥義の根幹です。
この大信力こそが血脈であり、大信力あってこそ功徳が現れるのです。
次に、「南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え」とあります。
臨終正念とは、臨終の際に、正しい念慮を持つことであり、言い換えれば、死に臨んでも心を乱すことなく妙法を信じる一念を貫き通すことです。
例えば今、私が死ぬとします。当然のように心は乱れます。
お金のこととか子どものこと、家のこと、親のこと。
いろいろと心が乱れて参ります。
でも、妙法を信じる、この一念だけは絶対に揺るがない。
この大聖人の仰せは、例え今臨終を迎えても信心は絶対に揺るがないと言えるように、臨終正念を祈念しなさいという意味と拝されます。
ではどうすれば臨終正念の境涯をモノにできるか。
本抄には「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人」と明記されています。
「臨終只今」、すなわち今臨終を迎えても悔いがない、という一日一日を積み重ねて信心に励む姿勢。
それこそが臨終に際しても信心が乱されないという生き方なのです。
続く御文に「生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ」とあります。
生死一大事血脈にまつわる大聖人のご指導の結論はこれです。
一言で言うとすれば、『臨終只今の強い信心で生涯真剣に題目を唱えぬくこと』これ以外に血脈なんてどこにもないということです。
続く「煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり」とは、煩悩即菩提・生死即涅槃という信仰によって得られる利益を表した御文です。
煩悩と菩提とは真逆の言葉であり、生死と涅槃も同じく反対の意味を持ちます。
法華経以前の教えでは煩悩を捨てて菩提にいたると説いておりましたが、煩悩を否定して覚りを得るという考えかたは、「生命」や「人間性」そのものを否定する考え方につながりかねません。
大聖人の仏法では、煩悩の「自分を苦しめる悩みの元」という一面を脱却して「自分を成長させてくれる活力」へと方向転換することができます。
生死即涅槃とは、生死の苦しみとらわれている心が涅槃という安楽の境地に至ることです。
「煩悩」と「菩提」の間に入っている「即」の字、「生死」と「涅槃」の間に入っている「即」の字は、単に反対の言葉を結ぶ語でなく、真逆にまでその質を転換させる「力」を表しています。
そして大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
つまり、この信心を励むことで、煩悩は”即”菩提となり、生死は”即”涅槃となるということです。
最後に、「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」とあります。
これまで生死一大事血脈、すなわち「日蓮大聖人の弟子として正しく受け継ぐべき成仏における最も大事なこと」について語ってきました。
その結論とは「強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念」していかなければ、信心の血脈が通っているとは言えず、法華経を信仰していると言っても功徳がないとの仰せです。
一見、厳しい仰せのようですが、よくよく考えれば我々の日々の実践はまさしく大聖人のご指導のままの戦いと言えます。
なぜならば、信心の血脈が通っていなければ功徳がでないとの仰せである以上、創価の信心で功徳が花開いている私たちには、信心の血脈があることの究極の証明になっているからです。
池田先生は次のようにご指導くださっています。
「恩師・戸田先生は語られました。『広宣流布に戦う以外に信心はない。こう覚悟することだ』『信心の血脈』は、広宣流布の祈りと拡大なくしては、ありえません。この『信心の血脈』を身命を惜しまず受け継いできたのが、創価の師弟です。したがって、師弟不二と異体同心の創価の信心に徹していく限り、地涌の使命の人材は澎湃と涌現するのです。この清浄無比なる創価の世界、学会の組織をどこまでも守り抜いていっていただきたい。徹して同志を大切にしていただきたい」
まとめ
臨終正念、臨終只今ということに思いをめぐらしてみると、私自身、妻や子供たちのこと、親のこと、仕事のことなど、気がかりなことが多すぎて、どうしても不安な気持ちになります。
しかし、これらの煩悩も”即”菩提となって、日々の活動の活力になり、エネルギーになり、そして充実となって、自分自身を成長させる糧とすることができます。
今日よりは、強盛の大信力を致して、の教えのままに、煩悩を菩提へと変えながら、ともどもに「相構えて相構えて」の戦いを悔いなくやりきってまいりましょう。