座談会御書講義

座談会御書「日妙聖人御書」講義(2023年12月度)

我ら具縛の凡夫、たちまちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云わく「我がごとく等しくして異なることなし」等云々。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。

私たち煩悩に縛られた凡夫が、たちまちに教主釈尊と等しい功徳を具えるのである。それは釈尊の無量の功徳を全て受け取るからである。経文には「一切の衆生を自分と同じ仏にして、異なることがないようにしたい」等とある。法華経を心得る者は、釈尊と全て等しいという文である。

背景と大意

今回皆さんと学んでまいります「日妙聖人御書」は、日蓮大聖人が51歳の時、流罪先の佐渡で認められた御書です。

内容は、遠路はるばる佐渡まで大聖人を訪ねてきた女性門下に対する激励のお手紙です。

お手紙をいただいた日妙聖人は鎌倉に住んでいた女性門下で、乙御前という娘がおりましたが、夫とは乙御前が小さいうちに別れていて、女性一人で小さい娘を育てる苦労があったようです。

当時は天変地異が頻繁に起こり、多くの人々は飢えと疫病に苦しめられていました。

そんな中、女性が幼い娘を連れて鎌倉から佐渡まで訪ねて行ったことが、いかに困難であったことでしょうか。

また、日蓮大聖人が首を切られそうになるという、竜口の法難、そして生きて帰ることはできないと言われた佐渡流罪と、大聖人への弾圧が強まると共に、門下への風当たりも大変に厳しくなり、多くの門下は大聖人に文句を言って信心を捨ててしまいました。

それでも、日妙聖人は一切信心を曲げずに、大聖人を求めて佐渡に向かったのです。

大聖人は本抄の末尾で、このように仰せです。

鎌倉からの道中は厳しい山があり、激しい海を越えねばならず、山賊や海賊が充満し、人々の心は、虎や犬のように危険であると。

それゆえ大聖人は求道の志を最大級に褒め称えられて、この女性門下に、日妙聖人と名づけなさいました。

聖人という呼び名は、過去世・現世・未世の三世を知る人につけられるとされていて、本来は日蓮大聖人ご自身にだけつけられる名称と言えます。

実際、熱原の法難の時に並々ならない活躍で同志を守った青年門下・南条時光にさえ、一旦は上野聖人殿と書かれたのを改められて、上野賢人殿と書かれたというエピソードがあるぐらいです。

その点で、日妙聖人には、日蓮大聖人の日の字と、仏の全ての功徳がおさまっているという妙の字をいただき、しかも最大級の敬称である聖人とされたことの意味の大きさを感じざるを得ません。

では、大聖人がそれほど思いをかけられた日妙聖人に、一番伝えたかったことは何か。

それは、妙法蓮華経を受持すれば、仏と全く同じ功徳を得ることができるということです。

本抄では、釈尊が誓願し、日蓮大聖人が現実のものとして開いて下さった法華経の真髄の法理を一緒に学んでまいりましょう。

解説

まず「我ら具縛の凡夫」とあります。

具縛の凡夫というのは煩悩などに縛られた、苦しみに満ちた人間のことで、あえて大聖人を含めた我らという表現をされているのは、法華経を実践する衆生全てが平等であることを教えられているものと拝されます。

この御文の直前では釈尊の修行の全ては妙の一字に納まっていると述べられていて、「たちまちに教主釈尊と功徳ひとし」とされている通り、凡夫が一瞬にして、釈尊と同じ功徳を得ることをご教示されています。

続く御文に「彼の功徳を全体うけとる故なり」とある通り、現代という時にかなった修行法は妙法を受持することであり、受持することで功徳を得ることができるのです。

受持とは法華経を持つことです。

法華経を持つことで、六波羅蜜の修行などと言われる、厳しい修行をしたことがない、煩悩に縛られた、苦しみに満ちた凡夫が、一瞬にして釈尊と同じ功徳を得て、成仏することができる、というのが法華経の真髄であり、日蓮大聖人が開いてくださった宗教界の大革命なのです。

次に「経に云わく「我がごとく等しくして異なることなし」等云々」とありますのは、まさに法華経がなぜ説かれたのかの明確な解答であり、珠玉の一節です。

方便品第2には『如我等無異』『我が如く等しくして異なること無からしめん』とあり、仏は全ての衆生に、仏と同じ境涯を得させようとしていることが示されています。

また、寿量品第16では自我偈の最後に「釈尊は常にこのことを念じている。すなわち、どのようにすれば、衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか」と説かれています。

法華経を心得る者は」とある通り、日蓮大聖人の教えのままに実践し、自行化他の信仰をひろめていくならば「釈尊と斉等なりと申す文なり」つまり仏の功徳をただちに受け取れるのです。

拝読御文より後の箇所には「牛王の子は牛王となり、獅子王とはならない。獅子王の子は獅子王となる」と記されており、師匠と不二の弟子であるならば、師匠と同じ境地に至ることができることが示されています。

これこそ、まさに衆生を自分と等しくしたいという仏の思いを成就させることができる法華経の究極の法門なのです。

池田先生はつづられています。

「方便品には『如我等無異』『我が如く等しくして異なること無からしめん』とある。全民衆を、自分と同じ境涯にまで高めたい。それが仏の誓願である。その心を、わが心として『不二』の道を進んでいけば、仏と「不二」の境涯になる。それが法華経の真髄である。その真髄を体現した尊極の和合僧が、創価学会である。わが身をなげうって、不幸の人、貧しい人、苦しむ人を救っていく。これが大乗仏教である。創価学会の魂である。これを忘れたら、何のための学会か。どこまでも民衆のために、この魂があるかぎり、学会は永遠に発展する」

まとめ

私たちは、師匠池田先生の思いをうけて今こそ立ち上がり、「獅子王の子は獅子王となる」との御金言のままに、永遠に師匠と戦う不二の弟子としての戦いを巻き起こしてまいろうではありませんか。

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