何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
どのように世の中が乱れていても、あなた方のことを、「法華経、十羅刹女よ、助け給え」と、湿った木から火をいだし、乾いた土から水を得ようとする思いで、強盛に祈っているのである。
背景と大意
今回はとても有名な御書の一節を皆さんと学んでまいります。あえて、今、この時に「呵責謗法滅罪抄」を学ぶことの意義を、ともどもに心肝に染める講義とさせていただきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
今回学びます「呵責謗法滅罪抄」は、日蓮大聖人が流罪中の佐渡であらわされたとされている御書です。
題号になっております、「呵責謗法滅罪」の意味ですが、謗法に対して呵責、つまり厳しく責めると、大難に遭うことになりますが、その難を受けることによって過去の自身の謗法を滅罪、つまり罪を消して、今世のうちに成仏できる、との法理をあらわされたものです。現代的に言えば、社会の諸悪を打ち破って正義を弘めることで「法難」にあうと、自身の罪が消え去って宿命転換を果たすことができるとの意味です。
本抄は、大聖人が流罪地の佐渡から鎌倉の四条金吾に送られたお手紙であるとされてきましたが、詳細は不明です。ただ、本抄を送られた門下が、鎌倉の在住で、激しい迫害にさらされていたことは間違いありません。
そんな厳しい状況の中で、この門下は、亡き母の追善のために、大聖人に御供養をお届けしました。本抄は、その真心に対する御礼のお手紙です。
その中で、大聖人はご自身の半生を振り返られながら、数々の「法難」にあってきたことを「実はひそかに喜んでいた」と仰せになります。それは、「法難」を受けることこそが過去世の謗法を滅罪する唯一の方法であり、悪世末法において「法難」が現れることこそ宿命転換の千載一遇のチャンスだからです。
しかし、実際に「法難」を受けてみると、私たちは凡夫ですので、ややもすれば後悔する心が起こってしまいます。 信心さえしていなければこんな嫌な思いをしなくてすんだのに、とついついグチをこぼしてしまいがちです。だからこそ、そんなつらい思いをしているにもかかわらず、強盛に信仰を持っている門下に対して、「只事ではない」「感涙が抑えがたい」と最大限の賞賛、激励をおくってくださっています。
先ほどから「法難」と一言で言っていますが、具体的にはどんなことが起こるのか。
大聖人は、本抄では「悪口罵詈(あっくめり)」「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」を強調されています。
「悪口罵詈」とは、悪口を言われること、「猶多怨嫉」とは敵対して迫害することです。
確かに、友人知人に「オススメの人」を伝言すると、よくこの「悪口罵詈」「猶多怨嫉」が起こる気がするのは私だけでしょうか?
この「悪口罵詈」と「猶多怨嫉」の法難が起こることこそが法華経の行者の証明であると大聖人は仰っているのです。
そして、本抄の末尾には、鎌倉よりも「百千万億倍」も、人々が大聖人を憎んでいる佐渡にあって、今日まで命を永らえているのは、門下の真心の御供養によるものである、と感謝を述べられながら、最後に“最愛の弟子達を断じて守り抜かずにおくものか!”との温かいメッセージを贈られます。
その末尾の文が今回学んでまいります一節であります。
解説
はじめに「何なる世の乱れにも」とあります。つまり、どんなに大変な世の中であっても。「各各をば」、みなさま、“一人一人”のことを。「法華経・十羅刹・助け給へ」。すなわち、法華経、諸天善神よ、助けなさい。そして、その祈りの質について、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」との仰せです。
「湿った木から火をだす」「乾いた土から水を得る」、このように一見不可能のようなことを可能にするには、まず不可能と思ってしまう自身の心を打ち破らなければなりません。あきらめてしまえばその時点で実現可能性はゼロです。必ず叶えられると信じ切った時に、諸天善神は大いに働き出すのです。
大聖人の弟子を護ろうとする願いは、法華経を受持する者を守護するとすでに誓っている諸天善神に対して、「なんとかしてくれませんか」とすがりつくような弱い祈りではありません。
世の中がどんなに乱れていようと、自分自身がとてつもなく厳しい状況にあったとしても、そしてたとえ弟子を護ることが不可能に思える状況だったとしても、一人一人のことをなにがなんでも絶対に護りきってみせる、絶対に諸天善神を働かせて見せる、との気概です。
苦境に耐え、なおも信仰を貫いている弟子達を包み込む慈愛と、不可能を可能にせんとする強い祈り。その師匠の強き一念が弟子をどれほど鼓舞したことでしょう。
昭和31年、あの「まさかが実現」の戦いで、池田先生が1月に大阪入りしてすぐに打ち出した基本方針に引用された御書が二つあります。そのうちの一つが、まさにこの「呵責謗法滅罪抄」でした。
不可能を可能にする戦いは、必ず不可能を可能にしてみせるという強い祈りから出発したのです。
そして、もう一つの御書が「四条金吾殿御返事」の「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」でした。
最後の最後、勝敗を分けるのは小手先のテクニックではありません。信心根本で戦ってこその法戦です。師弟不二の強盛な祈りがあってこその大勝利であり、大歓喜ではありませんか。
池田先生はつづられています。
「“法華経よ、諸天善神よ、わが弟子を断じて護りたまえ”。これが師匠の祈りです。師匠とは何とありがたいものか。私はこの御文を拝するたびに、感謝と不惜の念がわいてきます。私もまた、尊き同志の皆様方、そして全世界の民衆が、あらゆる辛苦を乗り越え、晴れ晴れと幸福・栄光の勝鬨を上げられるよう、ひたぶるに祈っています」
まとめ
さあ、この度の厳しい法戦にめぐり合えたことこそ宿命転換の大チャンスです!
「悪口罵詈」や「猶多怨嫉」も”どーん”と大きな心で受け止めて、一切ひるむことなく、最後の最後まで戦いきった者勝ちです。
この度の戦いで全同志を必ず護ってみせる、勝たせてみせる、との強盛な祈りで、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く」諸天を揺り動かしまくって、師匠とともに、新時代の大勝利の金字塔をともどもに打ち立ててまいりましょう。