人生に意味を与えるカギ、それが誓願です。
広布の誓願という地涌の使命に目覚めるならば、その人生は晴れやかです。
御聖訓から「誓願の人生」を学び、人生を勝ち開く勇気と智慧と力を湧き立たせてまいりましょう。
華果成就御書
よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず
良い弟子をもつならば、師弟は共に成仏し、悪い弟子を養うならば、師弟は共に地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば、何事も成就することはできない。
日蓮大聖人が57歳の時、身延であらわしたとされ、大聖人が少年時代に清澄寺で修学された時の兄弟子で、後々門下となった人物に与えられた御書です。
修学当時の師匠であった別の人物は、大聖人に帰依しながらも、なかなか念仏を捨てきれないでいました。
しかし、大聖人は御自身が妙法を弘通することで、必ず師匠にも功徳がかえっていくと仰せになられています。
師弟とは”弟子”で決まるものなのです。
開目抄の一節には「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」とあり、師匠だけでもなく、弟子だけもなく、師弟が共に戦う「師弟共戦」の姿があらわされています。
一方、佐渡御書では「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし」と、迫害を恐れて大聖人の弘教を非難する「あしき弟子」の姿を戒められています。
弟子が、「師と共に」、「師のために」、という一念の祈りと戦いに徹していく時、師弟の勝利の道は開かれるのです。
また、師匠がいかに偉大であっても、師の心をわかろうとしない弟子であれば、師匠をおとしめることになってしまいます。
大聖人は「良き弟子をもつならば」と仰せです。
弟子が勝利してこそ、師匠の偉大さを宣揚できる。自分自身が”良き弟子”であるかどうか。この一点が重要なのです。
上野殿御返事
願くは我が弟子等・大願ををこせ
願わくは、わが弟子たちよ、大願を起こしなさい。
日蓮大聖人が58歳の時、当時21歳の青年であった南条時光に与えられたとされる御書です。
追伸に「此れはあつわらの事の・ありがたさに申す御返事なり」とあり、「熱原の法難」の渦中に、時光が農民信徒のために奔走したことのへの御礼であることがうかがえます。
「大願」とは何か。
自他共の成仏を説いた妙法を弘める「広宣流布」こそ、大聖人門下の大願です。同じ一生ならば、妙法のため、広宣流布のために生きる。そう決めた人生のことを誓願の人生というのです。
広布のために戦えば第六天の魔王の働きが強くなり、難が襲ってくるのは自明です。その難に敢然と立ち向かっていくからこそ、勇気と智慧が湧いてくる。広宣流布という大いなる理想に挑戦するなかで、私たちは自身の殻を打ち破り、狭い視野を大きく広げ、難を悠々と見下ろしていける境涯を開いていくことができるのです。
しかし、大変な時、苦しい時にかぎって、目の前のことにとらわれて本来の大願を見失いがちです。
大事なことは「自ら」大願を起こすことではないでしょうか。
「何のため」に命を使うのか。
「私の誓い」「私の挑戦」として、人生を「妙法」にささげるとき、誓願の人生を歩むことができるのです。
まとめ
池田先生はつづっています。
「広宣流布こそ、御本仏の誓願である。この仏と同じ誓願に立って、祈り、行動する時、わが生命に『仏の勇気』『仏の智慧』『仏の力』が無限に湧いてくる。これこそが、不可能を可能にする源泉だ。これほど価値ある誇り高い生き方はない」
さあ、地涌の使命の誇りも高く、「広布の誓願」をわが誓願とし、苦難にこそ躍動して、境涯革命、人間革命の歯車を日々回転させてまいりましょう。