座談会御書講義

座談会御書「寂日房御書」講義(2023年11月度)

かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。

このような日蓮の弟子檀那となる人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである。法華経の行者と言われていることは、もはや不運なことであり、免れがたい身である。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「寂日房御書」は、日蓮大聖人が58歳の時、身延の地で認められ、弟子の寂日房を通して、千葉県あたりに住む女性門下に与えられたと言われている御書です。

本抄の最初と最後には「たびたびの音信」に対して御礼を述べられており、寂日房が大聖人が生誕された千葉県地方の有力な弟子であったと考えられています。

本抄の末尾に「此の事、寂日房くわしくかたり給へ」との御文があり、寂日房への信頼と、その先にいる女性門下に師弟の深き絆を伝えようとする大聖人のお心を感じることができます。

本抄では最初に、人間として生まれること自体がとても珍しいことであり、仏法に出会えることはさらに稀なことであると述べられます。

加えて、同じ仏法の中でも法華経の題目に出会って、南無妙法蓮華経を唱えることができる「題目の行者」になれたのは、過去に十万億の仏を供養した人なのでしょう、と門下を褒め称えられます。

そして、日蓮大聖人こそ、日本第一の法華経の行者であると宣言され、まさに末法の御本仏であられることを示されます。

そして、このような大聖人の弟子となったということは、深い縁があったに違いなく、大聖人と同じように南無妙法蓮華経を弘めていくべきであると仰せになります。

当時、静岡県では「熱原の法難」と呼ばれる、大聖人の信徒に対する激しい弾圧があった頃であり、弟子の多くは弾圧を身近に感じていたのかも知れません。

だからこそ本抄には、一人の女性門下を全力で支え、一緒に戦おうと励まされる大聖人のお気持ちが表れているのではないかと推察されます。

その激励を分かりやすい言葉で示されたのが、今回の拝読御文です。

それでは、永遠に続く師弟の絆を一緒に学んでまいりましょう。

解説 

最初に「かかる者の」とあるのは、日本第一の法華経の行者であり、末法の御本仏である日蓮大聖人のことです。

その大聖人の「弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って」とある通り、御本仏たる大聖人の直接の弟子となれるということは、いかに縁が深いことでしょうか。

弟子檀那とは、出家した者を弟子と言い、在家の信者のことを檀那と言います。

このように、出家した弟子と在家の信者が、分け隔てなく、同列に並べられていることからも、全ての門下に対する思い入れが感じられます。

また宿縁とは、現在の縁だけではなく、その生まれる前の過去から関係があり、縁があることを言います。

出家の弟子も在家の信者も、この宿縁無しに、大聖人に巡り会えるわけもなく、南無妙法蓮華経の題目の行者となれるわけもないのです。

そのような宿縁のある師弟なのだから「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」と仰せになっているのです。

師匠の日蓮大聖人が全世界の民衆のために立ち上がったように、弟子も立ち上がらなければなりません。

南無妙法蓮華経を弘めてきた大聖人には、絶え間なく厳しい難が襲いかかってきて、幾度も命に及ぶような事態になりました。

私たちの生きる末法という時代において、法華経の行者として立ち上がるならば、大聖人の弟子である私たちにも、必ず苦難や苦悩が襲いかかってきます。

法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり」との仰せは、信徒が様々に迫害に遭っている状況を世間の目から見れば、まるでよくないことのように見えると述べられているものと推察されます。

もちろん、法華経の行者と言われることを嘆くべきことといわれているのではありません。

むしろ、大聖人の門下となって南無妙法蓮華経のお題目を上げられることほどの喜び、名誉はないでしょう。

しかし、なんの罪もないのに、大聖人の門下あることを持って災難に遭い、時には命にも及ぶ迫害を受ける場合もある状況です。

「不祥」とは災難とか不運という意味ですが、「まぬかれがたき身なり」と仰せのように、法華経の行者である以上それを避けることはできません。

どうせ避けられない身であるのなら、いかなる状況に対しても敢然と挑戦する以外にない。

そうした不動の決意を促すために、このように仰せなのではないでしょうか。

池田先生は、つづられています。

「仏法の眼から宿縁の深さを見る時、地涌の菩薩として大聖人の御精神の通りに、広布に前進できること以上の喜びはありません。使命の道を貫くがゆえに、大闘争の途上において難に遭うことは、必然の名誉であり、ゆえに、決定した信心に立つことが重要となるのです。私たちは、どこまでも『日蓮と同じく法華経を弘むべきなり』との仰せのままに、縁する友に仏法を語っていくのです。この世に生まれて、人々の幸福に尽くし、多くの人から『あなたのおかげで救われた』と言われる貢献の人生を歩むことができる。ここに人間としての最も尊い価値があります」

まとめ

私たちは、日蓮大聖人と宿縁の深い弟子であり、全世界の平和と民衆救済を果たしゆく、地涌の菩薩そのものです。

いかなる苦難にもくじけない決意を燃やしながら、日々お題目とともに友好拡大に前進し、「創立の月」を勝ち飾って参りましょう。

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