しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と、冬と春とのさかいには、必ず相違することあり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり。
潮が干る時と満ちる時、月の出る時と入る時、夏と秋、冬と春という変わり目には、必ずそれまでと異なることがある。凡夫が仏になる時も、また同じである。必ず三障四魔という障害が現れるので、賢者は喜び、愚者は退くというのはこのことである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「兵衛志殿御返事」は、日蓮大聖人が身延の地で、池上兄弟の弟である宗長に送られたお手紙です。
池上家は、鎌倉幕府に仕えていた武士で、土木や建築をつかさどる、かなりハイクラスな身分の家柄でした。
池上兄弟は、大聖人が立宗宣言をされて数年後の入信と伝えられており、四条金吾や富木常忍、南条時光などと並び称されるような模範的な信徒です。
ところが、兄弟の父親は、極楽寺良観を信奉していたため、息子たちの信仰に大反対で、2度にわたって兄を勘当します。
勘当というのは、家督相続権を失うことを意味していて、社会的な破滅につながる一大事です。
長男が勘当されたということは、弟が信仰さえ捨てれば、家督相続権を譲り受けることができ、社会的にも褒められる立場になれます。
まさに兄弟の信心と団結を揺さぶり、退転に導こうとする卑劣な策略と言えるでしょう。
1度目の勘当の時に、大聖人がしたためられたのが有名な「兄弟抄」という御書です。
兄弟とその夫人たちは、大聖人の御指導通りに団結して戦い、一度は勘当をゆるされました。
しかし、父は再び兄を勘当するのです。
もしかすると極楽寺良観の働きかけがあったのかもしれません。
その知らせを受けた大聖人が、弟に宛てて送られたのが本抄です。
まさかの再びの勘当ではありましたが、これに対して兄は、何があろうと大聖人の弟子として信仰を貫く覚悟を決めていました。
しかし、一方の弟がどう振る舞うか、ここに今回の問題解決の焦点があると、大聖人は御覧になられていたのです。
弟は弟で信心と池上家、また信仰と世間体との板挟みの状態で悩んでいたに違いありません。
例えば、お兄ちゃんが家を出て、弟も家を出てしまえば、幕府から任された池上家の職務を、誰も継がなくなり、途絶えてしまうことになります。
それでは、父に対しても、また世間に対しても、あまりに申し訳がない。
本抄では冒頭、悩み苦しんでいるであろう弟に「あなたのために一番大事なことを申しましょう」と前置きをして「親に従うことが正しくない時は、従わずにいさめるのが真実の親孝行ですよ」と教えられます。
本抄で大聖人は何度も弟を厳しくいさめられます。
具体的には、「あなたは退転するだろう。その時、地獄で日蓮を恨まないように」「あなたは目前のことにとらわれた浅はかな考えから父親につくだろう。そうすれば、ものの道理が分からない世間の人々はそれをほめるだろう」「どう考えても、今度、あなたはきっと退転するにちがいない」「このように言っても、むだな手紙になるであろうと思うと、書くのも気が進まないが、後々に思いだすために記しておこう」などと、お認めになっています。
もちろん言うまでもなく、これは弟を突き放しているのではなく、どこまでも真剣に弟の奮起を願われてのことです。
門下との強い心の絆があればこそ、徹して厳しく表現されているものと拝されます。
その証拠に、一方では「思い切れ」「言い切れ」「申し切れ」「よくよく思い切れ」とたたみかけるように「勇気」と「覚悟」をもって魔とたたかい抜くように教えられています。
それでは、渾身の激励のお手紙の中で、重要な信心の姿勢が端的に記されている箇所を、ともどもに学んでまいりましょう。
解説
まず「しおのひるとみつと、月の出ずるといると、夏と秋と、冬と春とのさかいには、必ず相違することあり」とあります。
現代の都会では、月が出ても出なくても大きな違いはないようにも感じられますが、少し山手の方に行きますと、夜を照らす明かりが月や星しか見当たらない場合、月が出るか出ないかでは大きな違いがあります。
ここで大聖人が伝えようとしている大原則は「境目には変化がある」ということです。
では、仏道修行する私たちにとっての「境目と変化」とはどのようなことでしょうか。
続く御文に「凡夫の仏になる、またかくのごとし」とあります。
私たち凡夫が自らを仏であることを悟るには、その間に境目があって、大きな変化が存在するということです。
「必ず三障四魔と申す障りいできたれば」とある通り、その境目には三障四魔が出てくるのです。
三障四魔というのは信心修行を妨げる働きで、さまざまな形で紛らわしく現れる邪魔のことです。
この三障四魔に従ったり、恐れたりすれば、一生成仏の道を歩むことはできず、逆に、この妨げを乗り越えることができれば、成仏の道が開かれるのです。
だから、「賢者はよろこび愚者は退く、これなり」と仰せなのです。
とはいっても、できることなら、三障四魔などという困難には遭遇したくありませんよね。
しかし、日蓮大聖人は、三障四魔が出てくることは「喜び」であると仰せです。
では、なぜそのようなめんどくさい邪魔が競い起こることが「喜び」なのでしょうか。
大切なのは、三障四魔の捉え方です。
一見すると、魔軍に攻め込まれているようでも、本質は逆なんです。
「これは、自分の戦いが呼び起こしたものだ!」と自覚することができれば、呼び起こすことができたということ自体が喜びになる。
なぜならば、魔が競うのは、私たちが正しいことの証明だからです。
反対に言えば、三障四魔が競わない信心は、気の抜けたビールのようなものかもしれません。
炭酸がシュワっと競い起こって、苦味が駆け抜ける、からこその美味しさは、気の抜けたビールでは味わうことはできないでしょう。
自ら進んで魔の働きを起こしていく。
そして、その魔を克服することで、功徳を積み、変毒為薬を実現し、人間革命を成し遂げていくことができるのです。
どうやったら人間革命ってできるんだろう、人間革命ってどんなことだろうと、普段悩んでいるとしたら、この「魔が競い起こる」という状態を引き出したら大チャンス。
まさに賢者となって喜ぶべき状態なのです。
逆に愚者は退くとある通り、魔軍の勢いに退いてしまったら、私たちのせっかくの信仰も成就せず、一生成仏の道は閉ざされてしまいます。
だから、大きな変化が起こった時は、勇気を出して団結し、戦いの歩みを止めることなく、さらに突き進む時なのです。
池上兄弟も、信心を貫き通し、最終的には、あの父をも入信に導くことができました。
私たちも池上兄弟の宿命転換の戦いから、魔軍を押し返す信心を受け継いでまいりましょう。
池田先生はつづられました。
「人生と社会のどんな事態にも、『賢者はよろこび』と立ち向かっていく『勇気』を、先生は青年に示された。時には断崖絶壁に立たされ、『もう、これでおしまいか』と落胆することがあるかもしれない。しかし、その時こそが信心の勝負どころであり、宿命転換のチャンスなのだ。『さあ来い、負けてたまるか」と勇み戦えば、障魔は必ず退散する。そして、巌窟王の如き忍耐で『今に見よ』と辛抱強く頑張り抜けば、あとになって、本当に良かったと、爽やかに思い返せるものだ」
まとめ
私たちは、師匠池田先生が障魔と敢然と戦われたお姿を胸に、どのような苦難にも強盛な信心で戦い抜いて、最強の世界青年学会の布陣を最大限に拡大して参りましょう。