座談会御書講義

座談会御書「阿仏房御書」講義(2026年3月度)

末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。もししからば、貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり。 

末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はない。もしそうであるならば、貴賤上下にかかわらず、南無妙法蓮華経と唱える人は、わが身がそのまま宝塔であり、わが身がまた多宝如来なのである。妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。法華経の題目は宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経である。

背景と大意

今回、みなさんと学んでまいります「阿仏房御書」は、日蓮大聖人が佐渡に流罪中に夫婦で入信したという男性「阿仏房」に与えられた御手紙です。 

阿仏房は入信後、食料や紙などを大聖人に届けて、大変厳しい佐渡での生活をお守りした代表的な門下です。

また大聖人が身延に入山した後も、何度も大聖人の元を訪れていて、今回拝読します「阿仏房御書」にも真心の供養が阿仏房から大聖人に届けられていることが記されています。

そして、阿仏房はそのご供養とともに大聖人にお尋ねします。それが「法華経に説かれる多宝如来や宝塔とは、一体、何をあらわしているのか」という質問です。

ここで「宝塔」というキーワードが出てまいりましたが、この御書は別名を「宝塔御書」と申します。

宝塔といいましても何の話か、ちょっとイメージがわかないと思いますので、少し法華経に説かれている宝塔について説明します。

物語は、突然、釈尊の説法に集まってきた人々の目の前に宝の塔、すなわち「宝塔」が出現するところから始まります。

巨大な宝塔が地面から涌き出して、空中に浮かび、そしてその宝塔の中から、釈尊が言っていることは全て真実だという多宝如来の声が聞こえてきます。

多宝如来とは、法華経を説くところに宝塔を出現させて法華経の真実を証明することを誓った仏です。

このあと釈尊によって宝塔の扉が開かれ「虚空会の儀式」という空中での説法が始まりますが、その壮大な儀式も、宝塔の出現から始まったのです。

その宝塔は小さく見積もっても地球の直径の三分の一の大きさで、金銀財宝、七つの宝で飾られているという、とんでもないスケールの宝の塔です。 

法華経には、厳然とこんな想像を絶するような宝塔が書かれている。経文に説かれているものが、単なる絵空事ということでもないはずです。

では、果たしてこの宝塔とは、一体何を表しているのでしょうか? 

というのが、阿仏房の疑問でした。

この問いに対し、大聖人は「この話はめちゃくちゃ大事なことです」と前置きをした上で「所詮は自分の心の中に宝塔を見たということです」と説明しました。

要するに「宝塔を見る」とは、自身の生命が宝塔だと「知る」ことであり、私たちも、まさに自分の心に宝塔を見ているのだとおっしゃいます。

つまり「宝塔」というのは、遠いインドの昔話や経文上の話ではなく、まさに私たちのことを指しているのです。

今回拝読します御文は、まさに阿仏房の疑問に真正面からお答えになった非常に重要な箇所であり、日蓮大聖人の仏法のあり方を端的に表した究極の御文です。

ともどもに、宝塔とは何かについて、深く探求してまいりましょう。

解説

始めに「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」とあります。 

宝塔とは何か。それは、これ以上ない最も素晴らしい存在だと言っていいでしょう。

その最も尊いものとは、ズバリ私たちの「すがた」そのものであるとのご教示です。

まさしく、私たちが御本尊を持ち、お題目を唱え、仏法を弘めゆく「すがた」こそ「尊極の宝塔」です。

そんなに立派な宝塔があるなら、ちょっとメルカリで売ったりできればいいんですが、自分自身の「すがた」が宝塔なので、お金にはできません。

次に「もししからば、貴賤上下をえらばず」とあります。 

「貴賤上下」とは、身分の貴い人と賤しい人、地位の高い人と低い人という意味です。

日蓮大聖人の仏法は「貴賤上下をえらばず」です。

これぞ大聖人の最高の人間尊厳の思想と言えます。

男性か女性かという差別もなければ、社会的立場の違いも問題ではありません。

もちろん社会的な地位を勝ち取ることは素晴らしいことですが、宝塔には、特別立派な宝塔もなければ、しょぼい宝塔もないんです。

南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり」とある通り、 お題目を唱えるならば、皆が宝塔であり、また多宝如来なのです。 

多宝如来は、法華経が説かれる場所には必ずこの宝塔とともにあらわれ、法華経が真実であることを証明します。

つまり私たちが法華経の話をする時、私たちの生命は宝塔であり、私たちは多宝如来の役目を仰せつかっているのです。

多宝如来の役目とは、法華経の真実を証明することであり、法華経の証明者です。証明者とは、決して傍観者ではありません。 

続く御文に「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり」とあるのは、大聖人があらわされた御本尊とは宝塔であり、南無妙法蓮華経こそが宝塔であるとの仰せです。 

例えば鏡がなければ自分の顔を見ることはできません。

ただ普通に鏡をみていてもなかなか自分の姿は宝塔には見えてきませんが、「法華経を持つ」ならば自分を宝塔と知ることができます。

それは、宝塔である御本尊を鏡としてお題目を上げることで、我が身に宝塔を見ることができるという道理です。 

御本尊とお題目を弘め、貴賤上下の差別なく、あらゆる人、一人ひとりの胸中に宝塔を打ち立てる。 

これこそが私たちの日々の活動そのものです。

 池田先生はつづられています。 

「宝塔は、南無妙法蓮華経です。この題目を真剣に唱える人は、自身の宝塔の生命を最大に輝かせていくことができるのです。自分が置かれている境遇を嘆いたり、周りと比べて自分を卑下したりする必要など一切ありません。むしろ、困難な状況にあれば、より一層、真剣に題目を唱えることができます。そして、唱題に徹する人は、一番、幸せになれるのです。しかも、その姿は、多くの人に希望と勇気を送っていくーー最も苦しんでいた人が、最も幸福になるだけでなく、他の人をも幸せにしていく勇者になるのです。今、悩みや苦労が大きいのは、それだけ使命が大きい証しです」

 まとめ

お題目を上げる私たちの生命は、まさに宝塔であり、私たちは法華経の証明者としての多宝如来です。

そのことを「知る」ことができれば、他者の生命もまた宝塔と知ることができる。

私たちはお題目を上げる中で、地域に次々と宝塔を打ち立て、生命尊厳の哲学を着実に広げていく使命を自覚し、どこまでいっても御書根本、お題目根本に、前進してまいろうではありませんか。

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