「広宣流布も人間革命も、すべては祈りから始まる!」
今回は、呵責謗法滅罪抄と四条金吾殿御返事から、創価の【祈り】について学んでまりましょう。
呵責謗法滅罪抄
何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
どのように世の中が乱れていても、あなた方のことを「法華経や十羅刹女よ、助け給え」と、湿った木から火を出し、乾いた土から水を得ようとする思いで強盛に祈っている。
文永10年、佐渡に流罪中の日蓮大聖人が、四条金吾に与えられたとされている御書です。
謗法を攻めることで、過去世からの重罪を滅することができるという法理がとかれています。
その末尾、当時鎌倉で弾圧を受けていた門下のために、大聖人自身が強盛に祈っているとの仰せです。
御自身が明日をも知れぬ命でありながら、ここまでの思いを込めて弟子のために祈っているというお言葉に、四条金吾をはじめとする当時の弟子たちはどれほど勇気付けられ、心が温まったことでしょうか。
湿った木から火を出すこことも、乾いた土から水を出すことも常識的に考えれば不可能です。
それでも絶対にこの祈りをかなえてみせる、絶対に門下を守ってみせるという、烈々たる大聖人の思いが伝わってくるではありませんか。
そして、この祈りの強さ、思いの強さは、まさに日蓮大聖人が門下のお手本として示された祈りの姿勢でもあります。
”祈り”とはここまでの真剣さで祈るのだ。
不可能を可能に変えてみせるという覚悟で臨むのだ。
大聖人はそう私たちに教えてくださっているのです。
私たちの師匠池田先生も「この御聖訓を深く深く拝しながら、私も妻も、全同士に真剣に題目を送りゆく日々である」と語られています。
師匠はどこまでも弟子の勝利を信じ、祈ってくださっています。
師匠と祈りを合わせれば、勝てない戦いはありません。
師弟不二の祈りこそ、不可能を可能に変えていく源泉なのであります。
四条金吾殿御返事
苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ
苦を苦と覚り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても、南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないか。ますます、強盛な信力を奮い起こしていきなさい。
健治2年に四条金吾に与えられた御書で、「衆生所遊楽御書」という別名があります。
この御書が四条金吾に与えられる2年前、金吾は主君である江間氏を折伏。
江間氏は極楽寺良観を信奉していたため反感を買い、同僚からもいわれのない中傷を受けていました。
大聖人は人生の荒波に耐える金吾に対して、「苦楽ともに思い合わせて」とご指導くださいました。
苦難の時には挑戦のお題目、楽しいときには感謝のお題目です。
自身の心に渦巻く喜怒哀楽を全部ひっくるめて祈りに変えていく、それこそが自受法楽であるとの仰せです。
自受法楽とは、「自ら法楽を受ける」という意味です。
悩みや困難を越えるべき課題や目標へと変えていく知恵、そしてマイナスをゼロに戻すだけでなくプラスにまで大転換していく力。
この妙法の知恵と力、すなわち「法楽」を自ら受けることができるのです。
池田先生は「苦しきにも題目、楽しきにも題目です。題目を唱えられること自体が、幸福なのです。苦しみも楽しみも、ともに人生です。人生というドラマのかけがえのないひとコマです。苦しみなしに楽しみはわかりません。苦しみと楽しみの味を知らなければ、人生の深さはわからないでしょう」と、苦楽共に御本尊様を拝していくことの大切さを語られています。
大聖人は信心の強い四条金吾に対して、さらに「いよいよ強盛の信力を」と呼びかけられました。
私たちも信心を強く、勝利の大確信をもって、祈りに祈りきってまいりましょう。