故聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫妻にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし
亡くなられたご主人は、最後臨終のときに南無妙法蓮華経と唱えられたのですから、一生また無始以来の悪業は変じて仏の種となるのです。これが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「即身成仏」という法門です。貴女は、このような人と縁あって夫婦となられたのですから、また女人成仏も疑いないでしょう。
背景と大意
弘安元年7月、日蓮大聖人が57歳の時、身延にいらっしゃった大聖人のもとに静岡県から一通の手紙が届きます。
それは「病気の夫が、息を引きとる直前まで題目を朗々と唱え、見事な姿で旅立ちました」と、夫の最期を大聖人に報告する内容でした。
大聖人は、手紙を出した女性門下を妙法尼御前と呼び、夫妻をずっと見守ってこられていました。
訃報に触れた大聖人はすぐさま激励のお手紙を妙法尼御前に返されます。
そのお手紙が今回拝読御書となっている「妙法尼御前御返事」です。
大聖人は、亡くなられた夫の”臨終正念”の信心を褒め称え、永遠に仏の境涯を得られるとご断言されます。
そして、夫婦で強盛な信心を貫いてきた妙法尼についても、成仏の軌道を進んでいることは間違いないと励まされ、本抄を結んでいます。
信仰ゆえに迫害を受けていた妙法尼は、最愛の夫に先立たれ頼るべき人を失って、どれほどか心細かったでしょう。
そこに届けられた大聖人の真心と確信の一言一言が、最愛の夫を失った妙法尼を深い悲しみから救い上げたに違いありません。
創価学会では、「春分の日」である3月21日を中心に「春季彼岸勤行法要」を開催しており、勤行法要では今回、この「妙法尼御前御返事」を拝読して故人への追善を行うことになっています。
ここでは拝読御書「妙法尼御前御返事」を学び、創価の追善回向のあり方について考えたいと思います。
解説
冒頭に「故聖霊・最期臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば」とあります。
聖霊とは、妙法尼の亡くなった夫のことをさします。
この後に続く御文は、亡くなるときにお題目を上げた功徳についてのご説明と思われます。
「一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う」とありますので、今世での一生の間の悪業と、無始の悪業、すなわち遠い過去から積み重ねてきた悪業が、成仏の妨げとなるどころか、かえって成仏への因となるとの仰せです。
続く御文に、「煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり」とあります。
煩悩即菩提とは、煩悩という迷いに覆われた生命だとしても、その身に仏の覚りの知恵(菩提)が開かれること。
生死即涅槃とは、生死の苦しみを味わう凡夫の身に、仏の悟りの境地(涅槃)が開かれること。
即身成仏とは、この一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。
要するに、今世の悩みや苦しみ、過去世の宿業などに振り回されている凡夫の身に、そのまま仏の境涯が開かれる、仏の知恵や力を出していけるということです。
ではどうやって、その覚りや知恵や力を引き出すのか。
それこそが「即」の字です。
「即」とは、妙法を信じて実践すること。
つまり自他共に南無妙法蓮華経と唱えぬくことです。
それが”即”という力を発揮して、「無始の悪業」すら変じて仏の種となるのです。
妙法尼の夫は、お題目を朗々と唱えて見事な姿で旅立ったとのことですので、その成仏は間違いなく、永遠に仏の境涯を得ていくとの仰せです。
だからこそ、「かかる人のえんの夫妻にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし」と、妙法尼の成仏も間違いないと御断言されているのです。
池田先生はこのように述べられています。
いかに不慮の別れであったとしても、妙法に縁した生命は、仏天に厳として擁護され、守護されながら、成仏の軌道を悠々と進まれゆくことは間違いない。妙法で結ばれた家族の絆は何ものにも切られない。ひとたび離れても、また必ず同じ妙法の国に生まれ合わせ、常楽我浄の不滅の旅を一緒に歩める。
まとめ
大聖人仏法における「追善回向」の根幹は、私たち自身が御本尊を信じて学会活動に励むことにあります。
私たちが地道な学会活動によって功徳をたくさん積むことで、同時に功徳を故人へ回し向けることができる。それが追善回向です。
そして広宣流布を実現するため創価学会の中で自行化他の実践に励むこと以上の追善回向はないのです。
私たちは、故人と妙法尼に向けられた大聖人の深い慈愛をしっかりと受けとめながら、故人の追善回向ためにも、日々の戦いに挑戦してまいりましょう。