この法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らう道理なるが故に、流罪せられ、命にも及びしなり。しかれども、いまだこりず候。法華経は種のごとく、仏はうえてのごとく、衆生は田のごとくなり。
この法門を日蓮が説くので、”忠言は耳に逆らう”というのが道理であるから、流罪に処され、命の危険にも及んだのである。しかしながら、いまだこりてはいません。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「曽谷殿御返事」は、日蓮大聖人が55歳の時、身延の地で著されたお手紙です。
お手紙をいただいたのは、曽谷教信という千葉県あたりで大聖人の中心的門下として活躍した人物と言われています。
曽谷教信は、おそらくは何らかの役目を幕府から賜った役人であろうとされていて、経済的に裕福であった他、教養と学識も深く、難解な漢文体の御書を受け取ったこともあるほどです。
また、たびたびご供養もされていて、まさに中心的門下として大聖人からの信頼の厚い人物でした。
また本抄は、その内容から「成仏用心抄」とも呼ばれています。
その名の通り、成仏の道、成仏のために必要な用心とは何か、について詳しく教えてくださっている内容となっています。
では何が、大事であるか。
それは根本的な成仏の法である南無妙法蓮華経、そしてそれを伝えてくれる師匠です。
しかし、正しい師弟であっても、悪を見過ごしてしまっては、地獄に堕ちるとも仰せです。
さらに経文をひきながら、重ねて、正しい師匠によってこそ成仏できることを述べられ、成仏の用心とされています。
ではその正しい師匠、「根本の師匠」とは誰なのか。
1つの視点で言えば、それは法華経を説いた釈尊のことですが、現代の私たちにとっては、末法の御本仏たる日蓮大聖人のことです。
なぜなら、大聖人は、絶えず悪を責め、民衆のために、成仏の種を広げてきたからです。
つまり、南無妙法蓮華経のお題目、そして悪を見過ごさずに責め、師匠である日蓮大聖人を見失わない。
それこそが成仏の用心なのです。
今回の拝読御文は、本抄の末尾にあたる箇所で、どんな障害にも屈せず、お題目を広げる決意を表現なさった有名な一文です。
大聖人の民衆救済への一歩も退かないご精神を一緒に学んで参りましょう。
解説
始めに「この法門を日蓮申す故に」とあります。
「この法門」とは、法華経であり、それを現代に実践として通用するようにした南無妙法蓮華経の信心のことです。
「日蓮申す」とは、これまでの大聖人の折伏の実戦であり、国のトップに命懸けで説き伏せようと行動したこと、そして権力者による暴力や圧力にも屈せずに戦い続けてきたことです。
「この法門を申す」ということ自体がいかに激しい戦いであったか、どれほど命をすり減らす行動であったかということが感じられます。
そして「故に」さらに「忠言耳に逆らう道理なるが故に」とある通り、これほど過激に行動したからこそ、大きな反動が返ってきます。
それが、「流罪せられ、命にも及びしなり」です。
首切りの刑にあい、生きては帰ってこれないと言われていた佐渡に島流しにされ、大聖人もその門下も厳しい弾圧を受けることになりました。
しかし、大聖人は、「しかれども、いまだこりず候」と言い放ちます。
いわば、日本中の人々から集中砲火を浴びる状況の中で、大聖人は毅然と叫ばれたのです。
何があっても諦めず、一切退くこともなく、全民衆を救ってみせるとの、この獅子吼に込められた、慈悲の精神に触れると、胸に熱いものが込み上げてくるではありませんか。
拝読御文の最後には「法華経は種のごとく、仏はうえてのごとく、衆生は田のごとくなり」とあります。
人間生命という田んぼに、南無妙法蓮華経という種を植える。
成仏の根本は南無妙法蓮華経でありその種をおろすことで、本来、人が持っている仏性を触発するのです。
その種を植える人が仏なのです。
現代の私たちが仏法を友人に語ることも、植え手となって相手の生命に成仏の種をおろすことと同じです。
正しい南無妙法蓮華経だからこそ、相手の仏性を呼び覚ますことができる。
その種がいつ芽を出し、花を広げるかはわかりません。
しかも、種を植える時には「忠言耳に逆らう道理」で、思わしくない反応を得ることもあります。
もちろん、凹んだり悩んだりしますが、それでも「いまだこりず候」の魂で、再び立ち上がり、一人でも多くの人に種を植えていく。
これこそが、「根本の師匠」たる日蓮大聖人の実戦であり、師弟不二たる私たちが実践していくべきことなのです。
池田先生はつづっています。
「信心の喜びを語れば、友の生命に『仏の種』が必ず植えられる。相手の反応に一喜一憂する必要はない。仏種は時を超え、幸福の花を咲かせ、和楽の園を広げるからだ。我らは妙法の種を撒く人だ。最極の仏事に胸を張り、一人一人との縁を大切に育もう!『いまだこりず候』と、御本仏直結の仏縁拡大を賢く、朗らかに!」
まとめ
私たちが、仏の種を植えようとするとき、思いもよらぬ厳しい反応をもらうこともあります。
しかし、どのような状況にも「よし、種を植えることができた」と前向きにとらえ「いまだこりず候」と胸をはって、さらに前進しようではありませんか。
「仏はうえてのごとく」とある通り、私たちの活動はまさに仏事であり、仏の戦いなんです。
「いまだこりず候」との大聖人の大慈悲の獅子吼を自身の決意に変えて、我が地域、我が地区に幸福勝利の陣列を拡大してまいりましょう。