命と申す物は一身第一の珍宝なり 一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり
命というものは、わが身にとって一番貴重な宝である。たとえ一日であっても寿命を延ばすならば、千万両の莫大な金にもまさるのである。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります可延定業書は、富木常忍(ときじょうにん)の奥さんにあてられた御手紙です。念のために富木常忍が何者かと言いますと、千葉県の武士とされておりまして、現在でいえば上級公務員であり、国の内情すら知っていた人物だったそうです。
入信の時期は門下の中でも最も早く、立宗宣言から間もない頃に入信したものと考えられています。非常に難しい漢文で書かれた御書や、「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」など多くの重書をいただくなど、四条金吾と並び称されるような中心的門下でした。
また、大聖人の御真筆の書を現代に多数残した功績でも知られており、御書を学ぶ私たちにとっても恩の深い方であります。
では、その富木常忍の奥さんはどのような人物だったかと申しますと、信仰も深く、よく夫を助けたと言われており、四条金吾から「富木さんは奥さんのことを杖とも柱とも頼みにしている」と言われるような女性でした。
ただ、例えば仮に、私の友人が「お前は本当に奥さんのことを杖や柱のように頼りにしているな」などと言おうものなら、私も妻も顔から火が出るような恥ずかしさでしょう。
しかし、それほど富木常忍が大事に思っていた奥さんは、実は重い病に悩まされていたわけです。だから大聖人は事あるごとに、富木常忍に奥さんの病気について、とても心配していること、そして強く祈っていることをお手紙にしたためられていました。
今回、学んでまいります「可延定業書」は、そんな病の悩みの最中にあった富木常忍の奥さんである富木尼御前に、“病に負けず、今日という「宝の一日」を日々積み重ねていこう”と、温かい励ましを送られた御手紙です。
では、ここで題号の「可延定業」の意味を考えます。
「業」とは、身や心や口による行いのことです。それが原因となり、未来にさまざまな苦楽の報いが、結果として現われます。その報いの内容や現れる時期が定まっている業を「定業」、定まっていない業を「不定業」といいます。
本抄では、時期が来たら亡くなってしまうという意味において、定業を特に「寿命」の意味で用いられています。本抄の冒頭には、「どんな重病も善医にかかれば治せるように、いかなる“定業”も、法華経の大良薬によって転じ、寿命を延ばすことができる」と強調されています。要するに“定業”、すなわち「寿命を延ばすことができる」と言う意味で、「可延定業」とご理解ください。
本抄では、実際に寿命を延ばした例をいくつか紹介した上で、「末法の時代に法華経を修行して寿命を延ばすのはまさに経文の通りであって、なんら不思議なことはない」とご断言されています。
さらに、大聖人ご自身の母親についても、妙法で病を治して4年寿命を延ばしたことを紹介されて、「あなたも今、病にかかっているのだから、法華経を信じて治してみましょう」と命を揺さぶるような問いかけをされるのです。
そして、「命こそは最高の宝であり、一日の命は莫大な金よりも価値がある」と述べられたあと、具体的には同じ大聖人門下の同志であり医術にも勝れていた四条金吾の治療を受けるよう勧められます。そして、それとともに四条金吾に治療を依頼するに際しての心構えを微に入り細に入り教えます。
このように大聖人がご指導されるにあたっては、すべからく個別具体的な智慧を伴っていることを改めてお伝えしておきたいと思います。大聖人の深々の真心が、万感の込められた一言一言が、もしかすると病によって弱気になっていたかもしれない富木尼御前の“生きる勇気”を奮い起こしたに違いありません。
そして本抄の最後には、重ねて、一日でも生きていれば、それだけ功徳を積めること、その命が大切だということを教えられて本抄を結ばれています。
あえて、本抄全体を大胆に一言でまとめますと「寿命を延ばすことができる法華経にめぐり合ったのだから、最も大事な宝である命を一日でも長く生きましょう」という御書です。
解説
まず始めに、「命と申す物は一身第一の珍宝なり」とあります。生命の尊極さを説かれた御文です。
続く御文に「一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」とあるのも、一日生きることの価値を無量の財宝よりも尊いと述べられており、いかに生命が尊いかを強調されています。
大聖人が他の御書でも、「命より大切なものはない」ことを何度も繰り返し述べられているのは、実はそれこそ法華経の真髄でもあるからです。
「命は大切なもの」という表現は、もちろん、富木尼御前が病気になったことをお責めになっているわけではありません。病気自体は恥じることではありませんし、敗北でもありません。大事なことは、病になったとしても落ち込むことなく、病魔に打ち勝つ勇気を奮い起こせるかどうかです。
ここで大聖人が生命の尊さを強調されているのは、「一日でも長く生き抜いていきなさい」と、尼御前の“生きる意思”を呼び起されるためであると拝されます。そして、一日の生命の尊さを理解して、「ためらわず“早く”治療に専念しましょう」と呼びかけられているのです。
「生命は尊い」がゆえに、他人の生命はもちろんのこと、自分の生命も決してないがしろにしてはいけません。宝の生命を一日でも長く生きようとすることは、すなわち、そのまま自他の生命の尊極さを信じることと同じなのです。ましてや、お題目を唱え、広宣流布にまい進する「一日」が、どれほど尊いことでしょうか。
大聖人の励ましを受け「よし、一日でも寿命を延ばしてみせるぞ」と富木尼御前も奮い立った違いありません。この師弟共戦によって、富木尼御前は実に20数年も寿命を延ばしました。まさに「定業」を見事に転換した「健康長寿」の勝利の姿です。そして大聖人の御入滅後も、富木尼御前は、後継の日興上人のもとへ馳せ参じ、その御指導を仰ぎながら生涯を全うしたと伝えられています。
池田先生はつづられています。
「釈尊の教えの真髄である法華経の如来寿量品は、まさに生命の無限の尊さを説き明かしております。この生命の尊厳を知ることこそが、仏法の真髄なのです。ゆえに法華経を信ずる人は、尊厳なる生命を一日でも長く生き抜いていくことです」
まとめ
病気に立ち向かうには勇気が必要です。
私自身、病魔との長い長い戦いの果てに心がつかれきってしまったこともあります。どこまでも追いかけてくる症状に逃げ出したくもなりました。
しかし同志の温かい励ましを一身に受けているうちに「どこまでも追いかけてくるなら立ち向かって追い返すしかない」と気持ちを切り替えて信心で戦う決意ができました。この学会の励ましの連帯こそ、私にとって病魔との闘争のエネルギー源です。
さあ、私たちは創価の麗しき励ましの連帯をさらに内外に大きく広げ、妙法を持った尊極の一日一日を、今日も明日も悔いなく生き抜いてまいろうではありませんか。
そして、病魔をはじめとするあらゆる宿命を転換し、信心根本に「健康長寿の道」を共々に歩んでまいりましょう。