譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来たれり。仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候え。
譬えば、天の月は四万由旬も離れているけれども、大地の池には瞬時に月影が浮かびます。雷門の鼓は千万里の遠くにあっても、打てばその瞬間に聞こえます。同じように、あなたの身は佐渡の国にいらっしゃっても、心はこの国に来ているのです。仏に成る道もこのようなものです。私たちは穢土に住んではいますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お顔を見たからといってなんになるでしょう。心こそ大切です。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「千日尼御前御返事」は、日蓮大聖人が57歳の時、身延の地で千日尼に宛てて認められた御書です。
千日尼と大聖人は流罪地の佐渡で出会い、夫の阿仏房とともに、大聖人の弟子となって、大聖人の佐渡での厳しい生活を支え続けました。
大聖人が身延に入られた後も、阿仏房は佐渡からはるばる身延まで、何度もご供養を大聖人に届けていました。
大聖人は当時、御病気がかなり重かったとされています。
千日尼は夫の阿仏房を使いとして、お見舞いがてらに種々の御供養をしたのではないでしょうか。
もちろん佐渡から身延へ訪れることすら、簡単なことではなかったはずです。
その真心を受けて、佐渡の地で大聖人の身を案じている千日尼に対して、最大限に激励されているのが本抄です。
当然、佐渡の地からたびたび御供養を届けた阿仏房には直接励ましを送られたはずですが、夫を送り出して留守を預かっていた千日尼には、直接的には伝えられない分、お手紙にその思いを託されたのです。
本抄では、御供養の功徳の大きさをお伝えになり、千日尼に感謝を表された上で、法華経に供養することの計り知れない功徳について述べられるなど、千日尼の厚い信心、そして老いた夫・阿仏房をはるばる佐渡から身延へ送り出した真心を重ねて賞賛されています。
また、さらに、大聖人には千日尼自身の姿こそ見えませんが、心は身延の地に来られているのと同じだとのお言葉で激励されています。
このお言葉に触れた千日尼の感激は、どれほど深かったでしょうか。
遠く離れた師匠と弟子のドラマがそこにあります。
今回拝読します御文は、どんな距離があったとしても師弟の心はいつも一緒にあると述べられた箇所です。
一緒に、師弟不二の心の大切さを学んでまいりましょう。
解説
はじめに「譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ」とあります。
お月様は、お空にあるわけで、かなりの距離があるわけですが、池に月影が浮かぶのに時間はかかりません。
また、雷門の鼓というのは、中国の地方都市にあったとされる巨大な太鼓のことで、その音は一瞬で中国の中心地まで聞こえたと言われています。
次に「御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来たれり」とあるのは、体は確かに佐渡にいるのだけど、心は瞬時に距離を超えて身延に届いているという意味です。
実際のところ、千日尼には「もう2度と、大聖人にはお会いすることができないだろう」という、寂しい気持ちが心の底にあったのではと考えられます。
おそらく大聖人が再び佐渡を訪れることもないだろうし、千日尼が女性の身で身延まで赴くことも難しかったからではないでしょうか。
あるいは、千日尼の「大聖人にお会いしたい」という気持ちを見抜かれていたのかもしれません。
そこで大聖人は、信心の一念は瞬時に距離を越えるという譬えを用いて、「心は私と一緒にいるんです」と励まされたのです。
この激励が、千日尼にどれほどの勇気と希望を与えたことでしょうか。
「仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし」とある通り、成仏の道も同じように「私たちの住む世界が、穢土すなわち汚れた国土であっても、正法を持った私たちの心は、霊鷲山すなわち仏の世界にあるのです」と仰せです。
苦悩に満ちた現実世界に生きながらも、いかなる環境や悩みにも振り回されない仏の生命を涌現することができるとのご教示です。
最後の「御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候え」とのおおせは、師弟とは会えるか会えないかというような形式ではなく、心こそが大切であると結論されている部分です。
「心」は必ず行動に現れます。
千日尼の場合は、毎年のように、夫を大聖人のもとへ送り出すという行動として現れました。
大聖人は、千日尼の真心を受け止めた上で、その心こそが成仏の道であるとし、「心こそ大切に候え」と師弟の絆を確認されたのです。
池田先生は、つづられています。
「師弟不二。これが創価の大道である。これまでも、学会が、三障四魔、三類の強敵と戦った時、一心不乱に祈りぬき、正義を叫びぬいたのは、私と不二の心で立ち上がった尊き無冠の学会員であった。勇敢なる庶民が、学会を支え、守り、今日の大発展を築いた。『師弟不二』の魂が、一切の障魔を打ち砕くのである」
まとめ
私たちの日頃の学会活動は、千日尼や阿仏房に匹敵しないまでも、崇高な御供養に他なりません。
日々の励まし、友との対話によって、現実社会の中で戦いながらも、心には仏界を涌現させていく、最高の功徳を積ませていただいています。
その感謝を胸に、常に師匠を求め、心は師匠と共にあると確信し、広宣流布の大道を悠然と、朗らかに、今日も前進して参りましょう。