此の法門を申すには必ず魔出来すべし 魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる乃至従う可らず畏るべからず之に従えば将に人をして悪道に向かわしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云々、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ
この法門を説くならば、必ず魔があらわれる。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻きには「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(乃至)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮が身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。
背景と大意
今回学んでまいります兄弟抄は、池上兄弟という兄弟が主人公です。
池上兄弟は、日蓮大聖人が立宗宣言をされてから数年後に入信したと言われる草々の門下で、模範的な信徒の代表格でもあります。
池上兄弟の「池上家」というのは、鎌倉幕府の、いわゆる建築や土木を司るお奉行様でございまして、鎌倉時代にあっては、相当な身分にありました。
で、その相当な身分にあったお父さんは、なんと極楽寺良観の熱心な信者でありました。
極楽寺良観というのは、真言律宗の僧侶で、当時の権力の中枢である鎌倉幕府と結びついて大きな力を持っていました。
日蓮大聖人は、この強大な力を持つ極楽寺良観に対しても、ガンガンに破折しています。
決定的だったのが有名な「雨乞い対決」での良観の大敗北です。
しかし、良観は負けを認めるどころか、大聖人に対して逆恨みをしまして、権力による弾圧をはじめます。
その結果、大聖人は当時の警察権力から尋問を受けたり、突然襲われたりして、結局、処刑されそうになるという、いわゆる、竜口の法難、さらには佐渡流罪へとつながっていきます。
しかし良観が、これほどの嫌がらせを続けても大聖人は全然へこたれず、ついには佐渡から帰ってきてしまったので、今度は大聖人の弟子や門下をいじめることで、信心を妨害して大聖人を困らせようとしてくるわけです。
あるとき、池上兄弟のお父さんは、兄弟のアニキの方を勘当します。これも、良観による策略だったのではと言われております。
池上兄弟は、「兄弟で」大聖人に帰依していたわけなんですが、そのアニキだけを勘当してしまいます。
「勘当」というのは「親子の縁をきる」ということですが、本来は長男ですから、鎌倉時代において“相当な身分”にあった池上家の、財産も地位も名誉もすべて手に入るはずだったのが、その全部を奪われてしまうという、大変ショッキングな事件です。
その一方で、弟にとっては、これは大チャンスになるわけですね。
アニキが失脚したわけですから、この池上家の相続権が突然自分のところに転がり込んでくるという、こんなにウマイ話はない。
ようするにアニキを勘当することで、この兄弟の絆を分断して、信心をやめさせよう、という魂胆です。
めちゃめちゃ、いやらしい作戦です。
この弟、当然、動揺します。
だから、大聖人はこの勘当事件を聞いて、「兄弟の信心が心配だ」、「特に弟が動揺して退転してしまわないか心配だ」、と察知して、御書10ページ以上に及ぶ長文のメッセージを兄弟とその兄弟の奥さんに宛てて届けられました。
それが今回学んでまいります兄弟抄であります。
そういう経緯ですので、この兄弟抄では、冒頭から「とにかく退転してはいけない。退転はとんでもない罪に値する」、ということを色んな例えを用いてご説明されています。
すきあらば退転させようと信心の邪魔をする存在を「魔」といいますが、なぜ法華経の信仰をたもつ人に魔が競い起こるのか、という理由をご説明されていきます。
つまり、信心をしていると色々な邪魔があれこれと悪さをしてくるのは、「正しい仏法」を実践して信心を深めている「証拠」であるということです。
だから、「魔」が入ったからといって、退転してはいけない。
「魔」があらわれたなら「戦いなさい」と、ご指導されています。
解説
まず「この法門」とは、日蓮大聖人の仏法のことをさします。
「申すには」と続きますが、それは「自ら信じ、他人にも教えていくこと」です。
そして「必ず魔出来すべし」とあります。
我々の信心をすれば、「絶対に」邪魔が入るということです。
「魔競はずは正法と知るべからず」ですから、魔もない、難もない、というのは、正しい信仰じゃないとまで言っています。
そして「行解すでに勤めぬれば」とありますが、すなわち、現代で言えば「行学」です。
信仰の「理解」と「実践」が進めば、「三障四魔紛然として競い起こる」。
三障四魔というのは、色々な仏道修行のさまたげのことですが、それらが、「紛然として」、ですから、不意をついて、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させるなど、入り乱れて、競い起こると。
信心を頑張れば、絶対に魔が出てくる。
じゃあ、その「魔」がでてきたらどうしたらいいか。
それは、「従うべからず」「おそるべからず」です。
兄弟抄全体を通して大聖人は「絶対に退転してはいけない」とおっしゃられています。
難にぶち当たったときに、「正しい信仰しているからこそ試されているんだ」と魔を魔と見破って、信仰を貫く。
それこそが、実は大聖人が竜口の法難、佐渡流罪と、極楽寺良観の嫌がらせを打ち破った戦いでもありました。
さらに続けて「この釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり、謹んで習い伝えて、未来の資料とせよ」とありますように、大聖人の三障四魔との闘争の誉れの歴史は、池上兄弟にも通じるだけでなく、私たち一人ひとりにもあてはめることができます。
私たちもまた、池上兄弟と同じく、それぞれが自身の宿命と戦いながら、激動の社会を生きています。
そして私たちが自分自身の魔を打ち破る戦いは、自分だけの勝利ではなく、悩める友、未来の友にとって最強の励ましとなる、ということにつながっていきます。
池上兄弟のように、信心をしているのに何故こんな目に遭うのか! と思うような難に会った時こそ、この御書を思い起こして、魔を魔と見破って「従わず」「恐れず」、後世に語り継がれるような勝利の歴史を築く時です。
池上兄弟は、まさにこの御書のご指導の通りの戦いをなしとげ、二度に渡る勘当という難を兄弟揃って乗り越えて、信心に大反対だったお父さんを折伏して、入信させることができました。
この、池上兄弟の信仰体験は、現代でも語り継がれる「門家の明鏡」となっています。
池田先生は戸田先生のお言葉を引用して「『一生成仏という大空に悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならない。難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。信心で超えられぬ難など、断じてない』この戸田先生の決然たるご確信こそ、学会精神であり、折伏精神であり、魔と戦う攻撃精神です」とおっしゃっております。
まとめ
私自身、病気という魔に翻弄され、大嵐の中を「信心」という心の柱にしがみついて、まさに今も耐え忍んでいる最中であります。
しかし、この病魔との闘争も、決して人生の回り道ではなく、信仰の大道のど真ん中を、一歩一歩確実に歩んでいると確信しております。
今日よりは、「必ずこの難を乗り越えてみせる」との決意も新たに、さらに一歩前進の戦いを進めてまいりますので、よろしくお願いします。