各々随分に法華経を信ぜられつるゆえに、過去の重罪をせめいだし給いて候。たとえば、鉄をよくよくきたえばきずのあらわるるがごとし。石はやけばはいとなる。金はやけば真金となる。
あなたたちは、懸命に法華経を信じてきたので、過去世の重罪を責め出されているのです。例えば、鉄を十分に鍛え打てば内部の傷が表面に現れるのと同様である。石は焼けば灰となる。金は焼けば真金となる。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「兄弟抄」は、池上兄弟と呼ばれている二人の兄弟が主人公です。
池上兄弟は、大聖人が立宗宣言をされて数年後の入信と伝えられており、四条金吾や富木常忍、南条時光などと並び称されるような模範的な信徒でした。
池上家は、東京に住んでいる有力なお奉行様で、土木や建築をつかさどる、相当な身分の家でした。しかし、池上兄弟の父親は二人の信心に猛反対していました。
それもそのはず、父は日蓮大聖人に敵対していた極楽寺良観の信者だったのです。
そして父はついに兄弟のうちの兄を勘当してしまいます。
勘当とは、親子の縁を切る、ということですが、当時の勘当はそれだけにとどまらない重大な意味を持っていました。それは、経済的保証を奪い取ることでもあり、また社会的な破滅をも意味するものでした。
一方で弟には相当な身分の家の家督相続権が突然転がり込んでくることになるのですから、弟にとっては大チャンスの到来です。
信仰をすてない兄は池上家の家督をつげなくなり、弟は父に従って信仰を捨てれば、家督をつげるようになる。
兄弟で大聖人に帰依していたのに、兄だけを勘当するというのは、兄弟の仲を裂くような、かなりいやらしい策略だったのです。 一説では、兄を勘当したのも良観の策謀であったとされています。
大聖人は、この勘当事件を聞いて、すぐさま「弟の信心が心配だ」と察知して、御書全集にして10ページを超える、長文の御手紙を池上兄弟とその夫人たちに送りました。それが今回学んでまいります「兄弟抄」です。
そういう経緯ですので、大聖人は池上兄弟に「どんな妨害があろうとも、惑わされずに信心を貫きなさい」と一貫してご指導をされます。
また「魔競はずは正法と知るべからず」という大聖人門下にとって信心の永遠の指針となる御金言を池上兄弟に示され「このような厳しい難に遭うのは“正しい”信仰をしているからであり、だからこそ、ますます団結して信心に励みなさい」と兄弟とその夫人を励まされています。
今回の一説では、厳しい苦難に遭うのは、むしろ信仰の功徳の表れであるとする「転重軽受」の法門に触れる、大変重要な御文です。
解説
始めに「各々随分に法華経を信ぜられつるゆえに」とあります。
兄弟のそれぞれが、随分に、即ち持てる力の限り、信じてきたからこそ、と言う意味です。
続く御文には「過去の重罪をせめいだし給いて候」とあります。
法華経への信仰を頑張ってきたからこそ、過去世における重罪が現れてきたとの仰せです。
これが、信心をしているのに、なぜ苦難に遭うのかと言う嘆きの心に対する明快な答えです。
苦難自体が、信仰の功徳の現れであるからこそ、退かなければ、必ず乗り越えることができるのです。
「たとえば、鉄をよくよくきたえばきずのあらわるるがごとし」とあるのは、何度も熱して鍛えることで強くなる鉄の性質を、信心を深めることで苦難が現れることとなぞらえたご指導です。
このように過去世の重罪を現在の苦難として受けることを「転重軽受」といい、過去世に作った罪業を現在に軽く受けることで、成仏への道が開けることを表しています。
この「転重軽受」と言う考え方は、現在の苦難がそのまま成仏への橋渡しとなるという希望の法理であり、勇気と希望を持って苦難に立ち向かうための、力強い励ましとなります。
池上兄弟が、激しい苦難にあっていることを十分に理解されている上で、必ず乗り越えられるから絶対に乗り越えて行こうとおっしゃられているのです。
続く御文には「石はやけばはいとなる。金はやけば真金となる」とあります。
ここでは、本物の弟子とそうではないものとの違いがあることが示されます。
「石はやけばはいとなる」とある通り、苦難があることで退いてしまうならば、灰となり何も残りません。
あえて大聖人が「金はやけば真金となる」とおっしゃっているのは、池上兄弟への真の弟子としての絶大な信頼があったからでしょう。
私自身も、これまでにもう絶体絶命だ、と思い込んで立ち上がれない時もありました。
今思えば、迫りくる苦難に対して、自分の小さい小さい境界で物事を判断し、勝手に絶望していただけでした。
そんな時、先輩の温かく、そして事細かなご指導に支えられて再起し、全ての苦難を乗り越えて、こうして信仰を続けることができています。
池田先生は次のようにつづっています。
「どんな苦難も恐れない。どんな困難も嘆かない。雄々しく立ち向かっていく。この師子王の心を取り出して『宿命』を『使命』に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境界といえます。したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう。生ある限り戦い続ける。生きて生きて生きぬいて、戦って戦って戦いぬいていく。この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対するとらえ方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです」
まとめ
私たちの生命は、鍛えれば鍛えるほど強くなるくろがねです。
どのような障害にも揺るがない、真金のような生命を輝かせていけるのが、私たちの信仰です。
どんな苦難に直面したとしても、今こそ本物の信仰者として立ち上がる時との大確信で、どこまでもお題目根本に戦ってまいりましょう。