座談会御書講義

座談会御書「阿仏房尼御前御返事」講義(2024年12月度)

いよいよ信心をはげみ給うべし。仏法の道理を人に語らん者をば、男女僧尼必ずにくむべし。よしにくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。「如説修行」の人とは、これなり。

ますます信心に励んでいきなさい。仏法の道理を人に語っていく者を、在家の男女・出家の僧尼、すなわちあらゆる人が必ず憎むにちがいない。よし、憎むなら憎むがよい、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安などの金言に身を任せない。「如説修行」の人とは、こういう人をいうのである。

背景と大意

今回学びます阿仏房尼御前御返事は、大聖人が54歳の時に身延の地で著されたお手紙です。

その名の通り、阿仏房という弟子の夫人である千日尼に与えられたお手紙です。

阿仏房夫婦は、佐渡で念仏を信仰していましたが、大聖人が佐渡に流罪されていた時に入信して、大聖人の過酷で厳しい佐渡での生活を守り抜いた存在です。

当時、食べるものも満足にない大聖人に、夫である阿仏房に食料を背負わせて届けさせたエピソードも有名です。

大聖人を助けたことがきっかけで、夫妻は住むところを追われるなど迫害されましたが、くじけずに信念を貫き、大聖人が幕府から赦免されて身延の地に移られた後も、強い求道心を燃やして、阿仏房をはるばる佐渡から身延まで送り出すなど、あつい信心を貫きます。

そんな千日尼が、大聖人に対して謗法について尋ねられたようで、その御返事が、今回学びます阿仏房尼御前御返事ということになります。

さて、謗法とはいかなるものか。

謗法とは、誹謗正法の略。

正法、すなわち法華経、ひいては大聖人の仏法を信じず、かえって反発し、悪口を言うことです。

これには、正法を広める人を誹謗することも含まれます。

要するに正法やそれを広める人を否定することを謗法といいます。

阿仏房夫妻はもともと念仏を信仰していたので、千日尼としては、そのことが謗法となって、自分たちの願いが叶わないのではないかと心配したのかもしれません。

この、弟子からの切実な質問に対して、大聖人が答えたのは、法華経にはあらゆる人が成仏できることを説かれているのであって、法華経への信仰があれば必ず成仏できるとお伝えになり、力強い言葉

で、千日尼を励ましておられます。

今回の拝読御文はその、励ましの部分です。

解説

始めに「いよいよ信心をはげみ給うべし」とあります。

大聖人をお守りするために迫害を受け、なお自身が謗法の身のために成仏できないのではないかと心配する千日尼に対して、大聖人は「いよいよ」と仰せなっています。

これほどまでに大聖人をお守りし、信心強盛なことが明らかな千日尼であることは、もちろんです。

しかも法華経には万人成仏、すなわち全ての人が成仏できることが明かされているわけです。

しかし、それでもさらに油断せずに、ますます信心にはげみなさいとの励ましを送られているということを肝に銘じたいと思います。

では、具体的にどのように信仰を実践していくか。

続く御文に「仏法の道理を人に語らん者をば、男女僧尼必ずにくむべし」とあります。

まず、「仏法の道理を人に語らん者をば」とあるのは、折伏の実践を示されていると拝察されます。

しかし、折伏の実践を行うと「男女僧尼必ずにくむべし」とある通り、人に憎まれてしまいます。

男女・僧尼とは、あらゆる人、全ての人という意味です。

折伏を行ずると憎まれてしまうということは、仏典に書かれている通りであり、大聖人ご自身が体験してきた通りです。

私たちが、折伏をすることで強い反発を受けてしまうことも当然のことなんです。

その上で、大聖人は「よしにくまばにくめ」と仰せです。

誰に憎まれようとも、絶対に全民衆を救ってみせるとの、大慈悲のお心の発露と拝察されます。

また、実際に迫害を受けてきた千日尼に対しては「どんな苦難があろうと悠然と見下ろして進んでいこう」と励まされているのではないでしょうか。

続いて「法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし」とあります。

法華経では、末法において正法を弘める時には必ず魔が競い起こることが記されています。

釈尊はもちろん、天台大師、妙楽大師、伝教大師、章安大師といった、法華経の恩人たちも、正しい法を広めようとすると、必ず苦難が起こることを示しています。

そしてそれぞれの時代の広宣流布を進めていきました。

大聖人はそうした苦難を勝ち越えた先人の言葉を「金言」と表現されて、それに「身をまかすべし」と仰せになっています。

そして続く御文「如説修行」の人とは、これなり」とある通り、金言に身を任せる人が「如説修行」の人であると述べられています。

「如説修行」の人とはどのような人か。

如説修行とは、説の如く修行す、と読み下し、仏の説かれた通りに実践する人のことです。

如説修行を簡単に説明すると、説の如く修行するにも方法がいろいろあるんですが、時にかなった修行をしなければいけないということなんですね。

例えば、ヒートテックがいかに優秀でも、真夏に着てしまえば体調を壊してしまいます。

また、冷たいかき氷も、 真夏には良くても真冬に食べれば病気を招きます。

正しい修行というのは、時にかなった正しい修行であるべきなんです。

山にこもってお題目をあげるのが今の戦い方ではない。

末法にあたる現代の「時にかなった修行」とは、折伏なんです。

そして折伏を実践すると必ず困難が起こる。

だから「よしにくまばにくめ」との表現で、困難が起こるなら起こればいいじゃないか、という大境涯を示されているのです。

なぜならば、このようにして困難を起こす戦いをする人のことを「如説修行」の人と言うからです。

 

池田先生は次のようにつづっています。

「正法を語って悪口罵詈されることは、最高の名誉である。仏法のために、嫌な思いをしても、すべて功徳に変わる。勇気をもって正義を語り抜くことこそ、『如説修行』の実践であると示されているのです。それはなぜか。生命は永遠であり、妙法の力用は宇宙大です。この世の非難中傷など、あまりにも小さな波にすぎない。そう心に決めた大勇の信心が、無量無辺の大福運となって、わが生命を、一家眷属を、三世永遠の幸福と栄光で包んでいく。これが仏法の因果の理法であります」

まとめ

今まで、折伏の戦いで様々な思いをしたことも「正法を語って悪口罵詈されることは最高の名誉」との池田先生のご指導で救われる気持ちになる方も多いことでしょう。

もちろん友人・知人との人間関係は最大に大切にしながらも、もし困難に直面したとしても「よしにくまばにくめ」の精神を持ち、大きな境涯で「いよいよ」信心に励んでまいりたい。

非難・中傷に負けることなく、世界に創価の光を届けてきた創価の先人たちに学び、地道に粘り強い対話をわが地域に広げてまいりましょう。

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