仏法ようやく顚倒しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり。
仏法が、このように次第に転倒したので、世間もまた濁り、乱れてしまった。仏法は本体のようなものであり、世間はその影のようなものである。体が曲がれば、影は斜めになる。
背景と大意
今回、みなさんと学んでまいります「諸経と法華経と難易の事」は、日蓮大聖人が59歳の時、身延の地で、富木常忍に宛てて送られたお手紙です。
富木常忍は、大聖人から大事な御書を多数受け取っている、中心的門下の一人として有名です。
「諸経と法華経と難易の事」は富木常忍から「難信難解」についての質問を受けてのお返事とされています。
「難信難解」とは、「しんじがたくげしがたし」と読みくだします。
要するに、信じにくく、理解しにくいことで、仏の悟りが会得しにくいことを表しています。
これを逆に考えると、信じにくく、理解しにくいからこそ、真実の教えであると考えることができます。
法華経法師品第10には、あらゆる経の中で法華経が最も難信難解であると明かされていて、法華経こそが全ての民衆が成仏できる経であることを証明しています。
当然、法華経以外の経は、あらゆる民衆を成仏に導くことはできません。
そのような諸経が、国にはびこれば、正しい仏法を曲げることになります。
最も正しいものを曲げてしまえば、あらゆるものがおかしくなってしまうのは道理です。
本抄では、だからこそ、正しい仏法をまっすぐに立てるべきだと、教えてくださっています。
ともに、現実社会で勝利する信心の要諦を学んで参りましょう。
解説
はじめに、「仏法ようやく顚倒しければ」とあります。
ようやくとは時間をかけて、顚倒とは、逆さまになること、しければは、その結果という意味です。
つまり、仏法の正しいか正しくないかが次第にひっくりかえってしまった結果、「世間もまた濁乱せり」、世の中が濁り、乱れてしまったとの仰せです。
世間の濁りや乱れについては、当時、蒙古襲来が再び訪れることを恐れて、社会が混乱していたことを指しているものと思われます。
なぜ、このような大混乱が起こってしまったのか。
続く御文に「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」とあります。
仏法は体のごとしとの仰せは、仏法のありようが、すべての根本であり、中心であることを指しています。
世間はかげのごとしとの仰せは、根本である仏法の状態を写すように、世間というものは仏法のありようが現れてしまうものであるとの教えです。
体曲がれば影ななめなり、との仰せの通り、仏法の正邪が間違って広まれば、社会は不幸と混乱に満ちてしまうのです。
世間と仏法とは、体と影のように、密接に関係しています。
世間という現実世界と信心を切り離して考えることはできません。
信心実践の舞台は、現実世界なのです。
日蓮大聖人の仏法は、信心即生活であり、仏法即社会です。
仕事が忙しい、また、家事や育児が忙しい中で、自行化他の信心を実践することは大変に難しい戦いです。
しかし、生活の中で、社会に翻弄され、どこかで行き詰まりを感じているとしたら、その時こそ、信心を立てる時だと、大聖人は教えてくださっているのではないでしょうか。
私も、お正月ということで、ちょっとだけ、暴飲暴食してしまったんですけど、まあ、どうしても体重が乱れてしまいます。
元の生活に戻せば、ちゃんと正しい体重に戻るはずなんですが、これはなかなか難しいですね。
しかし、私たちの信心は、どこかで生活が曲がってしまったとしても、信心を立てて、信仰に励めば、自分を変革し、現実を変革し、濁り乱れていたことを正していくことができるのです。
池田先生は、つづられています。
「『信心』と『生活』、『仏法』と『社会』とは、それぞれ不二の関係です。別々のものではありません。また、日々の信心の実践にあっても、ともすれば、仕事が忙しいと、“いつか時間ができたら学会活動に励もう”と考えてしまいがちです。しかし、信心即生活とは本来、一切を信心の挑戦と捉えることです。ゆえに、どんなに多忙でも、活動もできることを精いっぱいやろうという一念に立って祈るのです。『体』である信心の一念が確立されてこそ、その『影』である仕事をはじめ、世間のことも、より良い方向へと進めていくことができます」
まとめ
私たちは皆、体である信心を生活の中心とした、現実社会を変革しゆく仏法者です。
どんな苦難も明るく乗り越えていける信心が、いつも根本にある。
混迷の現実社会にあって、これほど心強いことはありません。
我々は、本年「青年・凱歌の年」も、同志や友人と励まし合いながら、お題目根本に、歓喜の連帯を拡大してまいりましょう。