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		<title>座談会御書「阿仏房御書」講義（2026年3月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 09 Mar 2026 18:13:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[阿仏房御書]]></category>
		<category><![CDATA[宝塔御書]]></category>
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					<description><![CDATA[末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。もししからば、貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「阿仏房御書」講義（2026年3月度）【On the Treasure Tower】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/TtO-0D1tnB8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。もししからば、貴賤上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり。 </b></p>
<p><b>末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はない。もしそうであるならば、貴賤上下にかかわらず、南無妙法蓮華経と唱える人は、わが身がそのまま宝塔であり、わが身がまた多宝如来なのである。妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのである。法華経の題目は宝塔である。宝塔はまた南無妙法蓮華経である。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「阿仏房御書」は、日蓮大聖人が佐渡に流罪中に夫婦で入信したという男性「阿仏房」に与えられた御手紙です。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">阿仏房は入信後、食料や紙などを大聖人に届けて、大変厳しい佐渡での生活をお守りした代表的な門下です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また大聖人が身延に入山した後も、何度も大聖人の元を訪れていて、今回拝読します「阿仏房御書」にも真心の供養が阿仏房から大聖人に届けられていることが記されています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、阿仏房はそのご供養とともに大聖人にお尋ねします。それが「法華経に説かれる多宝如来や宝塔とは、一体、何をあらわしているのか」という質問です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ここで「宝塔」というキーワードが出てまいりましたが、この御書は別名を「宝塔御書」と申します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">宝塔といいましても何の話か、ちょっとイメージがわかないと思いますので、少し法華経に説かれている宝塔について説明します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">物語は、突然、釈尊の説法に集まってきた人々の目の前に宝の塔、すなわち「宝塔」が出現するところから始まります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">巨大な宝塔が地面から涌き出して、空中に浮かび、そしてその宝塔の中から、釈尊が言っていることは全て真実だという多宝如来の声が聞こえてきます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">多宝如来とは、法華経を説くところに宝塔を出現させて法華経の真実を証明することを誓った仏です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">このあと釈尊によって宝塔の扉が開かれ「虚空会の儀式」という空中での説法が始まりますが、その壮大な儀式も、宝塔の出現から始まったのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その宝塔は小さく見積もっても地球の直径の三分の一の大きさで、金銀財宝、七つの宝で飾られているという、とんでもないスケールの宝の塔です。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華経には、厳然とこんな想像を絶するような宝塔が書かれている。経文に説かれているものが、単なる絵空事ということでもないはずです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">では、果たしてこの宝塔とは、一体何を表しているのでしょうか？ </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">というのが、阿仏房の疑問でした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この問いに対し、大聖人は「この話はめちゃくちゃ大事なことです」と前置きをした上で「所詮は自分の心の中に宝塔を見たということです」と説明しました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">要するに「宝塔を見る」とは、自身の生命が宝塔だと「知る」ことであり、私たちも、まさに自分の心に宝塔を見ているのだとおっしゃいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり「宝塔」というのは、遠いインドの昔話や経文上の話ではなく、まさに私たちのことを指しているのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今回拝読します御文は、まさに阿仏房の疑問に真正面からお答えになった非常に重要な箇所であり、日蓮大聖人の仏法のあり方を端的に表した究極の御文です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ともどもに、宝塔とは何かについて、深く探求してまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">始めに「</span><b>末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">宝塔とは何か。それは、これ以上ない最も素晴らしい存在だと言っていいでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その最も尊いものとは、ズバリ私たちの「</span><b>すがた</b><span style="font-weight: 400;">」そのものであるとのご教示です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まさしく、私たちが御本尊を持ち、お題目を唱え、仏法を弘めゆく「</span><b>すがた</b><span style="font-weight: 400;">」こそ「尊極の宝塔」です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そんなに立派な宝塔があるなら、ちょっとメルカリで売ったりできればいいんですが、自分自身の「</span><b>すがた</b><span style="font-weight: 400;">」が宝塔なので、お金にはできません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">次に「</span><b>もししからば、貴賤上下をえらばず</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「貴賤上下」とは、身分の貴い人と賤しい人、地位の高い人と低い人という意味です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人の仏法は「</span><b>貴賤上下をえらばず</b><span style="font-weight: 400;">」です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これぞ大聖人の最高の人間尊厳の思想と言えます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">男性か女性かという差別もなければ、社会的立場の違いも問題ではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">もちろん社会的な地位を勝ち取ることは素晴らしいことですが、宝塔には、特別立派な宝塔もなければ、しょぼい宝塔もないんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして我が身また多宝如来なり</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、 お題目を唱えるならば、皆が宝塔であり、また多宝如来なのです。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">多宝如来は、法華経が説かれる場所には必ずこの宝塔とともにあらわれ、法華経が真実であることを証明します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり私たちが法華経の話をする時、私たちの生命は宝塔であり、私たちは多宝如来の役目を仰せつかっているのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">多宝如来の役目とは、法華経の真実を証明することであり、法華経の証明者です。証明者とは、決して傍観者ではありません。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に「</span><b>妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり</b><span style="font-weight: 400;">」とあるのは、大聖人があらわされた御本尊とは宝塔であり、南無妙法蓮華経こそが宝塔であるとの仰せです。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">例えば鏡がなければ自分の顔を見ることはできません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ただ普通に鏡をみていてもなかなか自分の姿は宝塔には見えてきませんが、「</span><b>法華経を持つ</b><span style="font-weight: 400;">」ならば自分を宝塔と知ることができます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それは、宝塔である御本尊を鏡としてお題目を上げることで、我が身に宝塔を見ることができるという道理です。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">御本尊とお題目を弘め、貴賤上下の差別なく、あらゆる人、一人ひとりの胸中に宝塔を打ち立てる。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これこそが私たちの日々の活動そのものです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;"> 池田先生はつづられています。 </span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「宝塔は、南無妙法蓮華経です。この題目を真剣に唱える人は、自身の宝塔の生命を最大に輝かせていくことができるのです。自分が置かれている境遇を嘆いたり、周りと比べて自分を卑下したりする必要など一切ありません。むしろ、困難な状況にあれば、より一層、真剣に題目を唱えることができます。そして、唱題に徹する人は、一番、幸せになれるのです。しかも、その姿は、多くの人に希望と勇気を送っていくーー最も苦しんでいた人が、最も幸福になるだけでなく、他の人をも幸せにしていく勇者になるのです。今、悩みや苦労が大きいのは、それだけ使命が大きい証しです」</span></p>
<h2><strong> まとめ</strong></h2>
<p><span style="font-weight: 400;">お題目を上げる私たちの生命は、まさに宝塔であり、私たちは法華経の証明者としての多宝如来です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そのことを「知る」ことができれば、他者の生命もまた宝塔と知ることができる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちはお題目を上げる中で、地域に次々と宝塔を打ち立て、生命尊厳の哲学を着実に広げていく使命を自覚し、どこまでいっても御書根本、お題目根本に、前進してまいろうではありませんか。</span></p>
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		<title>座談会御書「妙一尼御前御消息」講義（2026年2月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 15 Feb 2026 10:17:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[妙一尼御前御消息]]></category>
		<category><![CDATA[冬は必ず春となるの事]]></category>
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					<description><![CDATA[法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざる ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「妙一尼御前御消息」講義（2026年2月度）【Winter Always Turns to Spring】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/zTQ26Ew0U0g?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。</b></p>
<p><b>法華経を信じる人は冬のようなものである。冬は必ず春となる。昔から今まで、聞いたことも見たこともない、冬が秋に戻るということを。今まで聞いたことがない、法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを。経文には「もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない者はいない」と説かれている。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「妙一尼御前御消息」は、日蓮大聖人が54歳の時、身延から鎌倉に住む妙一尼に与えられたお手紙で、大聖人が流罪地の佐渡からご赦免になって一年ほど後のことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">別名を「冬は必ず春となるの事」と言います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が佐渡に流罪されて退転者が相次いでいた時期、妙一尼とその夫は、大聖人門下への弾圧の際に所領を没収されるなどの難を受けましたが、法華経の信仰を貫き通します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし残念ながら、妙一尼の夫は、大聖人が佐渡流罪を赦免される前に亡くなってしまいました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかも、残された妙一尼は、体が強くありませんでしたし、病気の子供をかかえておりました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そうした厳しい状況にありながら、妙一尼は、佐渡へ身延へと使用人を送って、大聖人にお仕えさせていました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄は、妙一尼が大聖人に「衣」を御供養したことに対するご返信です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は、この健気な妙一尼を徹底して励まします。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">妙一尼の置かれている環境は、まさしく冬のような逆境でした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は妙一尼に「絶対に幸せになってほしい」との思いから、本抄で全魂の激励を重ねられており、一文一句から大聖人の思いが伝わってまいります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄の冒頭で、夫が亡くなる時に、どれほど深く、残された家族のことを気にかけていたことであろうかと、夫の臨終の時の気持ちを再現するかのように認められています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">妙一尼は、自分や家族を見守ってくださる大聖人のお心に触れて、“大聖人はすべてわかってくださる”という大きな安心感に包まれたことでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、せめて、夫が今まで生きていたならば、大聖人が佐渡から赦免になったことや、蒙古襲来の予言が的中したことをどれほど喜ばれたことでしょうか、とも言われています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その上で、大聖人が流罪されたと言っては嘆き、大聖人の予言が的中したと言っては喜ぶ様は、現実の出来事に一喜一憂する「凡夫の心」であると仰せになります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">無論、法華経の信心を貫いた人は絶対に成仏できるのであり、所領を没収されながらも信心を貫き通した妙一尼の夫の成仏は間違いない。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄は、そのことを伝えることで、なんとしても妙一尼を守ってあげたい。そんな弟子を思う師匠の心がひしひしと伝わってきます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今回拝読する箇所は、まさにその成仏の要となる有名な一節です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">世界中に希望を広げている大聖人のご金言を共々に学んでまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">始めに「</span><b>法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">春を迎える前には、必ず「冬」を越えなければなりません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">信心によって春を迎えるためには、試練という冬を越えるのが道理です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">難しく言うと、私たちは日蓮大聖人の仏法によって、「三障四魔」や「三類の強敵」と戦い、「宿命転換」していくことで、この身のまま生命を仏と開くことができます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">分解すると、成仏の邪魔をしようとしてくる、困難や障害のことを「三障四魔」と言います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「三類の強敵」も性質は似ていて、法華経を広めようとすると、それを妨げようとして、必ず現れてくるものです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">要するにこれらは、広宣流布の邪魔です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、個人の変えることのできない運命、宿命を、変革することを「宿命転換」といいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり「三障四魔」や「三類の強敵」という成仏の妨げを乗り越えた先に「宿命転換」があって、仏界という生命の飛躍を迎えることができるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>法華経を信ずる人は冬のごとし</b><span style="font-weight: 400;">」との仰せの通りに戦って、戦いを乗り越えた先に「</span><b>冬は必ず春となる</b><span style="font-weight: 400;">」という成仏の軌道がある。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その意味で、法華経を信じているのだから、すぐに春を迎えられるわけではないんです。また、ただ、じっとしていて冬が春になるのを我慢して待つ、ということでもありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">お題目を信じて、「三障四魔」や「三類の強敵」と言う妨げと戦うから、「宿命転換」という春を迎えられる、ということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、冬は春となり、秋に逆戻りすることはありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これは絶対に誰も動かすことのできない自然の法則です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に「</span><b>いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、同じように、妙法を受持しきった人が仏になれないことはありえないのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候</b><span style="font-weight: 400;">」とあるのは、この法則が法華経に説かれた仏のお約束であるという証明です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が教えてくださっている信心で「必ず幸福になれる」ということをあらためて強調してくださっていると拝察されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この御文を読んで、妙一尼がどれほど心強く思ったことでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">夫に先立たれ、本人も体が弱く、病の子供を抱えた、大変厳しい状況でしたが、大聖人は、まさに、この冬があるからこそ春の喜びがある、と妙一尼の背中を支えてくださったのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「冬のごとき信心の戦い」があってこそ「勝利の春」に歓喜できる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華経を持つ人にとって、試練の冬は、必然です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">科学的にも「冬」には、もともと持っていた力、眠っていた可能性を目覚めさせる働きがあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">桜の花も冬の寒さがあるからこそ、美しい花を咲かせることができます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">逆に、冬の時期に、厳しい寒さがなければ、開花が遅れ、花が不揃いになってしまうと言われています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人の信心は「必ず春になる冬」のようなものです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">春となるとわかっているのですから、戦わない手はありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はつづっています。</span></p>
<blockquote><p><span style="font-weight: 400;">「自然の摂理として、冬が秋に逆戻りすることはないように、どんなに寒い冬の状態が続いていても、いつか必ず暖かい春が訪れます。それと同じく、厳冬のような逆縁も耐え抜いて、強盛に信心を奮い起こして戦い抜いていけば、勝利の花を爛漫と咲かせゆくことは絶対に間違いない。決まっていることなのです。だからこそ信心は貫き通すことです。途中で歩みを止めたり、疑いを起こして退いては何にもならない。歓喜の春を大確信して、地道に、弛みなく、朗らかに前進していくことが肝要なのです」</span></p></blockquote>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">冬のように厳しい現実に向き合った我々だからこそ、必ず暖かい春を迎えることができる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">御書に照らして、これはすでに決まっていることであり、絶対です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">寒いからといって縮こまっている場合ではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">寒い冬だからこそ、外に打って出て、鍛錬の冬に挑戦してまいろうではありませんか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">冬の時代にこそ勝利の因を積み、必ず爛漫とした春を迎えると心に決めて、御書根本、お題目根本に、前進してまいりましょう。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「諸法実相抄」講義（2026年1月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 23 Jan 2026 14:25:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[諸法実相抄]]></category>
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					<description><![CDATA[行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。 行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えて ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「諸法実相抄」講義（2026年1月度）【The True Aspect of All Phenomena】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/kJioZnFLTe0?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。</b></p>
<p><b>行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はない。自分も行い、人をも教化していきなさい。行学は信心から起こる。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「諸法実相抄」は、日蓮大聖人が52歳の時に、流罪中の佐渡で最蓮房という人に与えられたお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この「諸法実相抄」では、法華経方便品に説かれる「諸法実相」の経文の意義について、最蓮房が大聖人に質問したのに対してのお返事とされています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最蓮房は、仏法について大変学識の深い人で、大聖人が最蓮房に与えられた御書は「諸法実相抄」のほかにも「生死一大事血脈抄」や「草木成仏口決」、「祈祷抄」という仏法の奥底の法門を示された重要な御書が多くあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかもこの「諸法実相抄」には、追伸に、このように書かれています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「この文には、大事の事ども しるして まいらせ候ぞ。」</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">いかに、最蓮房を信頼していたかがわかる一節かと思います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">では、本抄のどこが、すごいか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">実は、本抄は、御書全集にしてわずか４ページ分と短い御書でありながら、末法の仏法の正体が、網羅的に、しかも簡潔にあらわされている、超重要な御書なんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">なので、これまで創価学会では、牧口常三郎先生の時代から、数ある御書のなかでも、とくにこの「諸法実相抄」を根幹として指導をしてきている歴史があります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">では題号となっております「諸法実相」とは何のことか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちが朝晩読誦している方便品とは、実はこの諸法実相について、まさに究極の仏の智慧であると賛嘆している経文となっております。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">具体的にはそれを「堪深無量」であり「難解難入」であると言いあらわして、その凄さを語っていますよね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">事実、この「諸法実相」は、法華経にしか解かれていない万人成仏の裏付けとなる法理なんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まず“諸法”とは、この現実世界のなかに、さまざまな姿をとってあらわれているすべての存在や現象のことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">“実相”とは真実のありのままの姿のこと。本質と言ってもいいかもしれません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">諸法という色んなものが実相、つまり本質であるということなんですが、これだと余計にわかりにくいですよね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">例えば、水という物質が氷になったり、水蒸気になったりしても、水の実相がＨ２Ｏであることには変わりません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、スマホの画面に映る映画やゲーム、ニュースなど、見えている映像は様々ですが、その正体・本質はすべて電気信号と液晶の光である、という例えもできるかもしれません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">人間の生命状態が地獄界とあらわれたり、菩薩界とあらわれたりしても、その実相は妙法蓮華経である、とすれば、どのような姿を現じていても、私たちはその身のまま仏界であると言えるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これが「諸法実相」の意味することです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして「諸法実相」を象徴的にあらわしたのが「虚空会の儀式」です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が御図顕された御本尊は、「虚空会の儀式」をあらわしたものであり、この妙法蓮華経を弘めゆく私たちは、男女に関係なく、また立場の上や下もなく、みな平等に地涌の菩薩であることを示されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして私たち地涌の菩薩によって、広宣流布は必ず実現するとの御確信を述べられ、その実践は「行学の二道」に励むことであると御教示くださっています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それでは、現代における弟子である私たちが、大聖人の教えをどのようにして実践していくかの根本を一緒に学んでまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">この一節は、創価学会第２代会長の戸田城聖先生が御書全集の「発刊の辞」に引用された御文です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">創価学会が広宣流布の闘争において常に読み継いできた、信心の基本であり、学会活動の羅針盤です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">成仏の根本は「信じる心」であり、この信心をより深めるために不可欠なのが、「行」と「学」の二つです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">拝読御文には</span><b>「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず」</b><span style="font-weight: 400;">とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「行学」の「行」とは、自ら勤行・唱題する「自行」と、友の幸福のために折伏を行う「化他行」の二つがあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり「行」とは、自分もするし人にも勧めること。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、「学」とは大聖人の仏法を学ぶことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最も肝心なことは「行と学がなければ仏法はない」ということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">逆に言えば、仏法とは行学を実践する人の振る舞いの中に存在するということと拝されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">仏法とは、どこにあるのか？</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それは、経典の中にあるわけでもなく、お寺などの建物にあるのでもありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人の教えのままに「行学」を実践する姿にこそ表れるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に、「</span><b>我もいたし、人をも教化候え</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、自分もするし人にも勧めるという「自行化他」の信心が具体的な戦い方となります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">自分だけ信心していればよいというのは、大聖人の仏法の実践とはいえません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">自分が幸福になるためにも、縁する人を次々と幸福にしていく。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">次に「</span><b>行学は信心よりをこるべく候</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">行学を実践すると言っても、信心が根本であるとの御指導です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この信・行・学の三つが、学会指導の基本であることは言うまでもありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最後に「</span><b>力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「力あらば」と聞いて、「私には、たいした力がないから、よかった」と胸をなでおろすのは早とちりです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">自分の境遇で、自分の全力を出して、自分のもてる「力の限り」と捉えるべきでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「一文一句なりとも」ですから、「たった一言であったとしても、このことを語らずにおくものか」との強い一念こそが、頑なな友の心を変えてゆくに違いありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、その「一文一句」を語るためには、「学ぶ」必要がある。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">学と言っても、難しい経典を原文で学ぶ必要はありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人の御書を学ぶことこそが、信を深める学びであり、行を高めていく学びです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">どこまでいっても、「御書根本」「実践の教学」で進んでまいりましょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はつづられています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「学会の伝統は、『師弟直結の教学』です。それは、大聖人の振る舞いに学んで、師子王の心を取り出して、難を乗り越える『勝利の教学』であり、『信心を深めるための教学』です。自らが学んだ感動、歓喜を、一人でも多くの人に語っていく『折伏の教学』であり、『広宣流布のための教学』です。大聖人の御精神に触れ、自身が妙法の当体であることを確信していく『生命変革のための教学』であり、『人間革命の教学』です。『行学』は、『信』より起こり、また、『行』『学』の二道の実践によって『信』が深まっていくのです。これが『人間革命』即『広宣流布』のリズムです」</span></p>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">創価学会の伝統は「御書根本」であり、「大聖人直結」です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちが日々御書を学び、励ましあいながら、信仰を深めている活動こそ、広宣流布の直道なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ、今こそは共々に地涌の使命を自覚し、新しい法戦に怖気づくことなく、「一文一句なりともかたらせ給うべし」の心意気で、今日も明日も、一歩前進の戦いを進めてまいりましょう。</span></p>
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		<title>座談会御書「四条金吾殿御返事」講義（2025年12月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 09 Dec 2025 06:36:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[不可惜所領の事]]></category>
		<category><![CDATA[四条金吾殿御返事]]></category>
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					<description><![CDATA[一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず。されば、同じくはなげきたるけしきなくして、この状にかきたるがごとく、すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし。中々 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「四条金吾殿御返事」講義（2025年12月度）【A Warning against Begrudging One’s Fief】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/s_Pm5RtizQk?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず。されば、同じくはなげきたるけしきなくして、この状にかきたるがごとく、すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし。中々へつらうならば、あしかりなん。</b></p>
<p><b>一生は夢の上の出来事のようであり、明日のことも分からない。どのようなつらい境遇になっても、法華経に傷を付けてはならない。それゆえに、同じ一生を生きるのであれば、嘆いた様子を見せないで、私がこの陳状に書いたように少しもへつらわず振る舞い、語っていきなさい。なまじへつらうならば、かえって悪くなるであろう。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「四条金吾殿御返事」は、日蓮大聖人が56歳の時に、身延の地から鎌倉の中心的な門下である四条金吾に宛てられたお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大変短い御書ですが、「頼基陳状」と言われているお手紙に添えられていたお手紙として有名な御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">別名を「不可惜所領の事」といいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「不可」というのはよくないこと、「惜」とはおしむこと、「所領」とは立場と財産のことです。所領という財産と立場を惜しんではいけません、という大聖人の深々のご指導を、この短文の御書の中に拝することができます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">当時の四条金吾には、仕事のボスに当たる、江間さんという人がおりました。このエマさんというと外国の女性の名前みたいですが、日本人の男性です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">四条金吾は、この江間さんとの関係がだいぶこじれておりまして、それもそのはず、当時、絶対服従が当たり前の主従関係にあって、四条金吾は江間さんに、この仏法を一緒にやりませんか、と、折伏をしたんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それ以来、左遷されそうになったり、仕事や立場を奪われそうになったりと、かなりしんどかったようです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">というのも、職場の同僚にあたる人たちから、悪口を言われていたらしくて、それを聞いていた江間さんとしても、四条金吾に対してだんだん冷遇するようになっていたんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">で、それを決定的にしたのが、鎌倉で行われた「桑ヶ谷問答」です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「桑ヶ谷問答」というのは何か。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">当時、鎌倉で「生きてる仏様」と敬われていた僧侶がおりまして、その僧侶が「もし自分の教えに疑問があるなら、どんどん質問してみなさい」と煽っていたんですね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そこで、大聖人のお弟子さんがそこの座談会に赴いて、さんざんケチョンケチョンに論破しました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">実はその時に、四条金吾も同席していたんですが、黙って聞いていたんですね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ところがその約2週間後に、上司の江間さんから手紙が届きました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そこには、「お前は座談会に複数人で刀を持ってあわれて、暴れ倒したらしいやないか」と書かれていて、四条金吾としては、事実無根のことだったのでびっくり。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さらに江間さんは「そんなやつはもう部下にしておれんから、法華経の信仰を捨てろ。さもなくば追放する」と強烈な脅しを加えてきたんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これには、さすがにこれまでの苦境に耐えてきた四条金吾でもキツかったわけですが、すぐさま大聖人に報告して「自分は絶対に信仰を捨てません」と決意しました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その報告を聞いた大聖人は、即座に筆をとり、金吾へのデマを晴らすため、金吾のかわりとなって、江間さんへのお手紙を書きました。この流れで、金吾の代筆として、江間さん宛てに認められたお手紙を「頼基陳状」といいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その「頼基陳状」に添えられていた金吾宛てのお手紙が本抄というわけです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">デマによって追い詰められてしまった四条金吾に対する日蓮大聖人の激アツの叱咤激励の思いをともどもに学んでまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">はじめに「</span><b>一生はゆめの上、明日をごせず</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">過去、現在、未来という「永遠の生命」からみれば、一生といえども、一時の夢のようなものです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかも、その夢のような、はかない一生においてさえ、明日の我が身がどうなるか分からない。これが凡夫の現実です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ましてや、この一生における名誉や地位、財産などは幻のようなものです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">次に「</span><b>いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「乞食」というのは、この場合、地位や財産を失うことをさしています。四条金吾は文字通り「乞食」になることも覚悟しなければならない状況でした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、例え地位や財産を失ったとしても、法華経にきずを付けてはならないと仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この一節こそ、信心の精髄を示された御文であると拝されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">仏法の価値観から見れば「乞食になること」よりも「法華経に傷をつける」ことこそが、信仰の敗北となってしまうということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大事なことは「乞食」になることそのものが、法華経にきずをつけることではないということ。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">病気であれ、経済苦であれ、置かれた境遇がどんなに苦しくとも、その境遇に負けずに信心を貫けば、法華経に対して傷をつけることにはなりません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">境遇に負けること、自分自身に負けることが、「法華経に傷をつける」ことになるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">信心を見失い、地位や財産に固執する姿に陥ってしまうこと。その恐ろしさを大聖人は四条金吾に伝えたかったのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に「</span><b>されば、同じくはなげきたるけしきなくして、この状にかきたるがごとく、すこしもへつらわず振る舞い仰せあるべし</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">意味は、どうせ、法華経にきずをつけないという生き方をするのであれば、現状を嘆くような姿を見せることなく、すこしも、人におもねったり、こびたりせずに振る舞い、語っていきなさい、ということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が金吾になり代わって書いた「頼基陳状」には、キッパリと「絶対に信仰をやめません」という金吾の決意が書かれておりました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最後に「</span><b>中々へつらうならば、あしかりなん</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、なまじおもねったり、こびたりすることが、むしろ悪い結果になるだろう、とのご指摘です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">絶対服従の上司であろうと、法華経にきずをつけるような態度、つまり、おもねったり、こびたりせずに、堂々と、法華経の信仰を語っていく。それに徹することができるか否かが、人生の岐路なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">どんな状況になろうとも、不退の決意が必要です。ただ、なんの配慮もない野蛮な不退の決意では、価値がありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は幾重にも幾重にも、四条金吾の命の心配をされて、上司に対する言動や、同僚との付き合い方など、事細かに指示を出されながら、それでいて、絶対に信心だけは譲らないという覚悟を決めなさいと、仰せなのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はこの御文を拝してつづられています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「信念は貫き通してこそ、まことの信念となる。『信仰』の精髄は、まさしく『不退転』にあります。いかなる逆境にも、ひとたび掲げた『信仰の旗』を厳然と振り続ける。その人が本当に偉大な人です。真の一流の人間です。御本仏・日蓮大聖人から賞讃される『誉れの信仰者』であることは間違いありません」</span></p>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私自身、メンタルの病で仕事を失い、何度も金銭的な問題で、家や家族を失うような厳しい場面がありました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、どんな状況にあっても、信仰の旗だけは守りぬく、と覚悟を決め、崖に爪を立てるような思いで、ここまで人生を登ってきました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これからも、一時の地位や名誉に心を惑わされることなく、信念を貫き通すと決めて、信仰者としての一流を目指してまいります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ、私たちは、いかなる苦難に直面したとしても「</span><b>法華経にきずをつけ給うべからず</b><span style="font-weight: 400;">」の御金言のままに、生涯不退転の信心で広宣流布に邁進して参りましょう。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「桟敷女房御返事」講義（2025年11月度）</title>
		<link>https://soka-gosyo.com/zadankai-sazikinonyoubougohenzi-202511/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Nov 2025 05:14:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
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					<description><![CDATA[たとえば、はるの野の千里ばかりにくさのみちて候わんに、すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば、一時に無量無辺の火となる。このかたびらも、またかくのごとし。一つのかたびらなれども、法華経の一切 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「桟敷女房御返事」講義（2025年11月度）【The Offering of an Unlined Robe】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/pa8DRDcPZsE?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>たとえば、はるの野の千里ばかりにくさのみちて候わんに、すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば、一時に無量無辺の火となる。このかたびらも、またかくのごとし。一つのかたびらなれども、法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。この功徳は、父母・祖父母、乃至無辺の衆生にもおよぼしてん。</b></p>
<p><b>たとえば、春の野が千里ほどにも広がって草が生い茂っている所に、豆粒ほどの小さな火を一つの草に放つと、いっぺんに無量無辺の火となる。この帷子もまた同じことである。一つの帷子ではあるが、法華経の一切の文字の仏に供養したことになるのである。この功徳は、父母、祖父母、さらに限りなく多くの人々にも及ぶに違いない。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「桟敷女房御返事」は、日蓮大聖人が54歳の時に、鎌倉の女性門下である桟敷女房に宛てられたお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">別名を「無量無辺の功徳の事」といいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">桟敷女房については詳しいことはわかっていませんが、桟敷というのは鎌倉の地名であり、そこに住んでいたから桟敷女房と呼ばれていたと思われます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は桟敷女房の夫を「法華経の行者」と讃えられており、桟敷の女房についても「法華経の女人」と賞賛されており、夫婦そろって強盛に信仰を貫いていたのでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄は、この桟敷女房が帷子、すなわち夏用の単衣の着物を御供養したのに対し、供養の意義と、その功徳がいかに大きいかを、慈愛を込めて教え、その信心を讃められている御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大変短いお手紙ですが、言葉の一つ一つ、行間に、父が娘に対するような、温かい思いやりが感じられる御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄の御述作が5月とされており、当時の5月といえば、そろそろ夏という季節で、いわゆる衣更えの季節なんですね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そのタイミングで、大聖人に、ぜひこの夏に着てほしいと、桟敷女房が真心こめて作った単衣を御供養したのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は、彼女の、こうした、心遣いと真心に御返事として応えられたのではないかと思われます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さて、本抄の別名となっております「無量無辺の功徳の事」とはどういう意味か。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">たった一つの帷子の供養ではありますが、その帷子は日蓮大聖人を通して法華経に供養されたわけです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり、法華経の六万九千三百八十四文字の仏に供養したのだから、六万九千三百八十四枚の帷子を供養したことになると、本抄では述べられています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さらに、それは六万九千三百八十四の仏に供養したことになるばかりでなく、その六万九千三百八十四の仏の一つ一つが、六万九千三百八十四の仏を内側に持っているので、それらの全ての仏にも供養したことになるんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">はい、もう完全に意味がわからないと思いますが、要するに、帷子一つを供養したその功徳たるや、無量無辺と言っていい莫大な功徳になるということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">桟敷女房の純真な、心からのご供養に対する大聖人の慈愛に満ちた激励のお言葉をこの機会にしっかりかみしめて参りましょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それでは、桟敷女房御返事の一節を拝読します。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">はじめに「</span><b>たとえば、はるの野の千里ばかりにくさのみちて候わんに、すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば、一時に無量無辺の火となる</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">なんてわかりやすい例えでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は、理解が早く深く及ぶように、仏法の定理を説明した上で、このようにわかりやすい説明を加えてくださることが多く、受け取ったメンバーの顔色が歓喜で変わるのが見えるようです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>はるの野の千里ばかりにくさのみちて候わんに</b><span style="font-weight: 400;">」とは、法華経の六万九千三百八十四文字の仏と言い換えてもいいでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そこに帷子一つを豆粒ほどの小さな火に例えられて「</span><b>すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば</b><span style="font-weight: 400;">」とされています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、それは「</span><b>一時に無量無辺の火となる</b><span style="font-weight: 400;">」と仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ここの御文のすごいところは、ゆっくり、でも、じわじわ、でも、じっくりことこと、でもなく、「一時に」「いっぺんに」「即座に」と表現されているところです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">心からのご供養をしたとたんに結果が出ている。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">原因と結果が同時に起こるという、仏法の凄みです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に、「</span><b>このかたびらも、またかくのごとし。一つのかたびらなれども、法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">一つの帷子のご供養が、法華経の六万九千三百八十四文字の仏にすべからく行き渡る。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人に、ぜひこの夏に着てほしいと、桟敷女房が真心こめて作った単衣の御供養に対して、ここまで絶大な無量無辺の功徳になるとされたことに、桟敷女房も感極まったのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">このお手紙を与えられた桟敷女房は、決してあり余った生活の中から帷子を供養したのではないと思われます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">流通経済の発達していなかった当時、おそらく苦労して織り、縫いあげたものにちがいありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかも交通の便も悪いなかで、大聖人のお手許にさし上げるまで、それはどれほどか祈りを込め、大切に扱われたことでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">彼女の真心あふれる信心に、大聖人は心から喜ばれたのだと推察されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最後に「</span><b>この功徳は、父母・祖父母、乃至無辺の衆生にもおよぼしてん</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">桟敷女房の功徳が単に彼女だけにとどまらないということを示しています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">父母、祖父母、さらに無辺の衆生にまでいきわたる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">だからこそ、ましてやあなたがいとおしく思っている夫が守られないわけがないと励まされているのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">なんという細やかな気遣いだろうと感じますね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">1人の女性門下にここまで心を砕き、慈愛を傾けてくださる師匠に、桟敷女房もさらなる強盛な信心をちかったのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はこの御文を拝して語られています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「皆さまが弘教に励む、広宣流布へと進んでいく、その功徳がどれほどすごいか。父母、祖父母、はもちろん、多くの人々にも厳然と及んでいく。それを強く強く確信することである。『確信』すれば、わが身はいよいよ無量の功徳につつまれていく。疑ったり、文句をいった分、せっかくの功徳を自分で壊してしまう。『心こそ大切』である。私たちは大聖人の仰せどおりの『心』で進みたい。その結果は必ず、この『一生』のうちに現れてくる。ともあれ、この御文に照らしても、『広布の大長者』であられる皆さまの福徳が、一家をつつみ、一族をつつみ、先祖も子孫もつつみ、さらに、国土までも包んでいくことは絶対に間違いない」</span></p>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちの日々の活動は、一つ一つがまさに、広宣流布へのご供養であり、六万九千三百八十四文字の仏に供養したのとなんら変わりがありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その強い確信が我が身をつつみ、父母、祖父母、さらに無辺の衆生にまでいきわたる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは、強盛な信心で、お題目を根本に、無量無辺の功徳を地域に社会に、その隅々まで広げてまいろうではありませんか。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「法華初心成仏抄」講義（2025年10月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 12 Oct 2025 06:55:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[法華初心成仏抄]]></category>
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					<description><![CDATA[とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり。 とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせ ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="法華初心成仏抄（25年10月度）How Those Initially Aspiring to the Way Can Attain Buddhahoodthrough the Lotus Sutra" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/kuZ1U40xto8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり。</b></p>
<p><b>とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信じる人は仏になる。謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。どちらにしても、仏になる種は法華経より他にないのである。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「法華初心成仏抄」は、日蓮大聖人が56歳の時に執筆したとされている御書ですが、御真筆は存在せず、御述作の年月日も欠けていて、誰に宛てたお手紙かも詳しいことはわかっておりません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さて、本抄の題号となっております「法華初心成仏」とはどういう意味か。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華とは、法華経のことですが、本抄の内容から汲み取りますと、南無妙法蓮華経のことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、初心成仏とあるのは、初めて発心した人、初めて成仏を目指した人が、成仏することを指します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">要するに、この末法という時代において、初めて信心することを志した人が、一体どうすれば成仏することができるのか、という問いであると考えられます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">もっといえば、全く信心について無知の人が、どうやったらいきなりその身のままで成仏できるのか、という問題です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その答えこそが、南無妙法蓮華経であり、この信仰を行ずるならば、あらゆる人が、即身成仏、すなわち、その身のままで、そのまま今すぐに成仏できる、ということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さて、そこで、疑問が湧いてきます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">何せ信心について無知な人がいきなり成仏すると言っても、疑う気持ちとか、反発する気持ちとか、必ず出てくるじゃないないですか。そういう人たちは、むしろ南無妙法蓮華経に反発して、けなすことで、罰を受けるんじゃないかなと。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そうですよね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちが、折伏に挑戦するときに、はい喜んで！と素直に入信する人なんて、そうそう出会うことはできません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">多くの人が、疑い、反発し、涙ながらに訴え、時には連絡を途絶えさせるなどして、信心をしようとしてくれない。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大事な友だから救おうとしているのに、むしろ信心から遠ざけてしまったらどうしよう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この疑問に答えるのが、今回拝読する御文となっています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まさに「信心と幸福と平和」を広げようとする私たちの対話運動の原動力とも言えるご指導です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人から直々にご指導を賜ったものと肝に銘じて拝読して参りたいと思います。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">はじめに「</span><b>とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最初の「</span><b>とてもかくても</b><span style="font-weight: 400;">」も強い言葉ですが、さらに「</span><b>強いて説き聞かすべし</b><span style="font-weight: 400;">」という強い言葉で強調されているのがわかると思います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ただ、この意味は「強引に」とか「無理やりに」という意味ではなく、例え「反発されるだろうな」という相手に対しても、「あえて」「勇気を持って粘り強く」伝えていくべきである、という意味です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人は他の御書で「この娑婆世界は耳根得道の国」と仰せになっています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">耳根得道とは、耳で聞くことで成仏するという意味で、逆にいえば、声によって成仏させることができるともいえます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは「強いて」声にだして、人に伝えることが重要なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に「</span><b>信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">信じる人が仏になる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そうそう、これこそが「仏法の力」なんですよね、と思いますよね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ところがどっこい。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人の仏法のすごいところはここからなんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">疑ったり、反発したり、涙ながらに訴えたり、時には連絡を途絶えさせるような人でも、「</span><b>毒鼓の縁となって</b><span style="font-weight: 400;">」仏になる、との仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">え？結局、反発した人も成仏するの？って思いますよね。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そうなんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そこで気になる「</span><b>毒鼓の縁</b><span style="font-weight: 400;">」ですが、「</span><b>毒鼓の縁</b><span style="font-weight: 400;">」とは、毒を塗った太鼓を打つと、例えその音を聞こうとしなくても、音が耳に届いて、音が届いた人は、その毒の影響を受けるという、という例えばなし。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">毒というとまるで悪いことのようですが、南無妙法蓮華経の功徳を太鼓で聞かせれば、どんなに耳を塞いでいても、その音が届いてしまい、ちゃんと成仏してしまうんですよ、という意味となります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">最後に「</span><b>いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">太鼓で音を聞かせるとして、では、どんな音を太鼓にのせて聞かせるか。という問題です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、それは法華経以外にはない、との仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華経の音声を「声から耳に」届けることで、反発しようが耳を塞ごうが、ちゃんと仏の「種」は届いていくんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ここで最初の「法華初心成仏」の話に戻りますが、全く信心について無知の人が、どうやったらいきなりその身のままで成仏できるのか。という問題でした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その答えは、南無妙法蓮華経の信心を「強いて」声から耳にとどけて、仏の種を植える。これが正解です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">相手の反応に心が折れることもありますが、粘り強く、真心をこめて対話をするならば、その種は必ず芽を出し花を咲かせるに違いありません。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はつづられています。</span></p>
<blockquote><p><span style="font-weight: 400;">「相手の機根や反応に翻弄されるのではなく、あえて関わり、あえて説くのです。あえて正義を語るのです。これが折伏であり、仏法対話です。その本質は、下種の活動です。厳然と『仏の種』を撒いているからです。どんな人にも仏性がある、と言われても、凡夫の眼には見えません。そもそも、自分の仏性だって見えない。凡夫の凡夫たるゆえんです。しかし、『石の中に火あり』の譬喩の如く、『仏と申す事も我等の心の内にをはします』との御本仏の仰せを信じること、すなわち、妙法こそが万人成仏の法であると信じることはできます。この信心の眼で相手に向き合うのです。聞いてくれるかどうかでなく、強いて語るのです」</span></p></blockquote>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは力の限り、友に友情を広げ、時には聞くに徹し、時には暖かく励まし、時には鋭くアドバイスするなどしながら、その耳に届けと、私たちの信仰をの喜びを伝えていく。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それこそが、我が境涯を大きく広げ、地域を日本を、世界を明るく平和にすることです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">例え全然聞いてくれなくても仏の種を植えられるのであれば、折伏に上手いも下手もなく、得意も不得意もないはずです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">創価学会第2代会長・戸田城聖先生は「手練手管も方法も何もありません。ただただ、自分は南無妙法蓮華経以外になにもない！と決めることを、末法の折伏というのです」と語っていらっしゃいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ、私たちは、地域に社会に対話を広げ、仏法対話に「強いて」挑みながら、世界広宣流布の大道を堂々と歩んでまいろうではありませんか。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「上野殿後家尼御返事」講義（2025年9月度）</title>
		<link>https://soka-gosyo.com/zadankai-uenodononogokeamagohenzi-202509/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 08 Sep 2025 02:09:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[上野殿後家尼御返事]]></category>
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					<description><![CDATA[法華経の法門をきくにつけてなおなお信心をはげむを、まことの道心者とは申すなり。天台云わく「従藍而青」云々。此の釈の心は、あいは葉のときよりも、なおそむればいよいよあおし。法華経はあいのごとし、修行のふ ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「上野殿後家尼御返事」講義（2025年9月度）【HellIs the Land of Tranquil Light】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/qgZLBwvJbhA?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>法華経の法門をきくにつけてなおなお信心をはげむを、まことの道心者とは申すなり。天台云わく「従藍而青」云々。此の釈の心は、あいは葉のときよりも、なおそむればいよいよあおし。法華経はあいのごとし、修行のふかきはいよいよあおきがごとし。</b></p>
<p><b>法華経の法門を聞くたびに、ますます信心に励んでいく人を、真の道心の人というのである。天台は「青は藍から出て、藍よりも青い」と述べている。この言葉の意味は、植物の藍は、その葉からとった染料で重ねて染めれば、葉の時よりも、ますます青みが深まるということである。法華経は藍のようなもので、修行が深まるのは、ますます青くなるようなものである。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回、みなさんと学んでまいります「上野殿後家尼御返事」は、模範的な信徒として名を遺した南条時光のお母さんに宛てられたお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その内容から、別名を「地獄即寂光御書」といいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">南条時光のお父さんは、時光が7歳の時に重い病気で亡くなります。その直後に大聖人にご供養を届けた時光のお母さんに対して、嘆きや悲しみをくみ取りつつ、解きほぐすように励まされたのが本抄です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は励ましの中で「浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです」とご教示なさり「これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫という」と述べられます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり浄土、素晴らしいところも、地獄、最悪なところも、自身の胸の中にあるのであって、他のどこか別のところにあるのではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それと同じように、一般庶民も仏も別のものではありません。これを悟るのを仏といい、迷うのを凡夫というのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続いて「これを悟ることができるのが法華経です。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのです」と御教示くださいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">浄土も地獄も、胸の内にあり、仏も凡夫も一体であると悟ることができるのは、唯一、法華経だけです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">地獄即寂光とは、法華経を持つことで、苦悩の極致である地獄の世界が、そのまま仏の住む寂光の世界となることです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">時光のお父さんは大聖人の門下となり、それ以降重い病に侵されながらも、強盛に信仰を貫いて亡くなりました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は時光のお父さんの生前の厚い信仰を称えられ「生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事の法門はこのことを説きあらわされたのです」と仰せになります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、一般庶民の身に「仏界の境涯を開く」こと。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">即身成仏とは、その身のままで仏の境涯を開くことができるという、法華経の神髄です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">こうした大聖人の温かい励ましが、どれほど時光のお母さんの悲しみを癒したことでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が、夫の死に際して、あえて地獄即寂光や即身成仏の法理を説かれたのは、時光のお母さんの信心をより深めることで、南条家の和楽を望んだからに違いありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして大聖人は、こうした法門を聞いたことを機に、いっそうの信心に励むよう勧められています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">仏法の話を聞けば聞くほど、そして、ちょっと難しい法門を知れば知るほど、ますます求道心を燃やしていくならば、私たちの生命は仏界の色彩に染め上げられていくのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄ではそのことを「従藍而青」という天台大師の「摩訶止観」にある言葉で表現されています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ともどもに、常に仏法を求め抜く、まことの求道の心を学んでまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">はじめに「</span><b>法華経の法門をきくにつけて</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この法門とは、あえて具体的に言えば「即身成仏」をさします。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">即身成仏とは、無茶な修行をしたり、何度も生まれ変わったりしないでも、その身のままで仏になることができるという究極の教えのことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この法門を聞いて「</span><b>なおなお信心をはげむを、まことの道心者とは申すなり</b><span style="font-weight: 400;">」との仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ありがたい法華経の法門を聞いたことを機に、いっそうの信心に励むべきであるとのご教示と拝されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">信心は、障魔との間断なき戦いです。大聖人が「</span><b>なおなお</b><span style="font-weight: 400;">」と強調された深い思いをしっかりと感じてまいりたい。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">次に「</span><b>天台云わく「従藍而青」云々</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「従藍而青」とは、天台大師の摩訶止観にある言葉で「藍よりして、しかも青し」と読み下します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">藍は、青色の染料を得るための植物ですが、藍の葉自体は、薄く青みがかった緑色です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その緑色の葉を絞った液も鮮明な青ではありません。しかし、この染料で何回も重ねて染めれば、濃い鮮やかな青色になります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>あいは葉のときよりも、なおそむればいよいよあおし。法華経はあいのごとし、修行のふかきはいよいよあおきがごとし</b><span style="font-weight: 400;">」との御教示の通り、私たちの仏道修行も深めれば深めるほど色濃く心肝に染めていくことができるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">藍からどれだけ深い青を引き出せるかは、私たちの信心によるものです。逆に言えば、信力の強さで深い深い青色を引き出すこともできる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この大聖人のお手紙を拝して南条時光のお母さんは、夫の成仏の確信と、信仰への奮い立つ思いで涙を流したのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この健気な母は後年、16歳の五男を突然に亡くし、そして時光もまた、命に及ぶ病に侵されてしまいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、そうした宿命との戦い、魔との闘争にあっても、大聖人を求め抜いた強き母は、勝利の姿で時光を立派な広布の後継者に育て上げることができたのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生はつづられています。</span></p>
<blockquote><p><span style="font-weight: 400;">「仏道修行の根本は、『行学の二道』ーー『学ぶこと』そして『行動すること』である。御書には『法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり』と仰せだ。学びを深めた感動を胸に、率直に仏法を語り、大きく友情を広げ、友に励ましを送るのだ。実践の中で壁にぶつかり、悩み、苦しむ。そこでまた、不屈の求道心を燃え立たせる。学びながら行動し、行動しながら学ぶーー。『行学』の持続こそ、人生勝利の根幹である」</span></p></blockquote>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私自身も、深い病の底にあり、人間革命の闘争の最中にあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">こうして日蓮大聖人の甚々のご教示を学ぶたび「なおなお」自分自身を鼓舞し、より求道心を高めて、行学に励んで参ります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">現状打破には、お題目しかありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">広布のお役に立てる人材となるため、日々祈り「いよいよ」の戦いを起こす決意です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ私たちはともどもに、今こそ広布拡大に邁進し、大勝利を満天下に示して参りましょう。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「転重軽受法門」講義（2025年8月度）</title>
		<link>https://soka-gosyo.com/zadankai-tenjukyoujuhoumon-202508/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 24 Aug 2025 10:51:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
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					<description><![CDATA[涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候。 涅槃経に「 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「転重軽受法門」講義（2025年8月度）【Lessening One’s Karmic Retribution】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/4vYurEGHvN8?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候。</b></p>
<p><b>涅槃経に「転重軽受」という法門がある。過去世でつくった宿業が重くて、現在の一生では消し尽くせず、未来世に地獄の苦しみを受けるはずであったものが、今世において、このような重い苦しみにあったので、地獄の苦しみもたちまちに消えて、死んだ時には、人・天の利益、声聞・縁覚・菩薩の三乗の利益、そして一仏乗の利益たる成仏の功徳を得るのです。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回みなさんと学んでまいります「転重軽受法門」は、現在の千葉県あたりで信仰をしていた三人組の、太田乗明（おおたじょうみょう）、曾谷教信（そやきょうしん）、金原法橋（かなばらほっきょう）、に宛てて認められたお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">時は文永8年。この年、大聖人は50歳です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">首を斬られそうになるという、あの最悪の事態「竜の口の法難」が9月にあったばかり。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">このお手紙は10月5日に認められていて、この5日後には流罪地の佐渡に向かわれるというタイミングでした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">首を切られて殺されそうになるという究極の難に遭われ、なんとか命は助かったものの、今度は一度行ったら二度と生きては帰れないと言われていた佐渡に流罪される直前。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄は、この仲良し三人組の誰か、または三人が大聖人の元に訪れたことに対するお手紙です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">一体どんな思いで弟子たちは大聖人のもとに馳せ参じたことでしょうか。悔しさと悲しさの中、断腸の思いで師匠にお別れを告げに来たのかもしれません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その弟子たちの思いを汲み取って、大聖人ご自身が最も熾烈な難に立ち向かっている最中でありましたが、弟子たちへの激励のためにお手紙の筆をとられたのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人はこの弟子たちに対して、何ゆえ大聖人やその弟子たちがこのような大きな難にあわねばならないのかについて、3つの角度から教えられています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">１つ目は、この大難は宿命転換を遂げる好機であること。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">２つ目には、正法を弘めているのであれば難が起こるのは必然であること。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">３つ目に、大聖人がこのように大難を受けられたのは、法華経を「身読」されているから。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人が首を斬られそうになり、今度は佐渡に流罪されるという状況で、不安になっている弟子たちに、大聖人やその門下が厳しい難に遭うのは、宿命を転換するためであり、正法を弘めるゆえであり、法華経に予言された通りの難を受けているからであるとお答えになったのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">中でも本抄の題号ともなっている「転重軽重」の法門は、苦難をはね返すことで、マイナスをチャラにするだけでなく、プラスに転換していくことのできるという、重要な法門です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今回は、転重軽重法門を学び、日蓮大聖人が命懸けで示してくださった宿命転換、変毒為薬の信心の奥深さを一緒に学んでまいりましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">始めに「</span><b>涅槃経に転重軽受と申す法門あり</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">転重軽受とは「重きを転じて軽く受く」と読み下します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これは、未来まで続くような重い宿業の報いを、今世に法華経ゆえの苦難に遭うことで、軽く受けて消滅させることを言います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華経ゆえの苦難を受ければ、来世もその次も長く続くような宿業が、今世で消せる、ということ。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に「</span><b>先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、本来は「過去の報い」が苦しみとなって未来に繋がっていくことを断ち切ることができません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、転重軽受法門はこうした苦難の意味を大きく変えます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">すなわち、日蓮大聖人の仏法はいかなる重い罪も転換できないものはないと説く「蘇生の宗教」「蘇生の教え」なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文には「</span><b>今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて</b><span style="font-weight: 400;">」とご断言されています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これは本抄に示されている転重軽受の法門の大変重要な部分です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">地獄の苦しみが来世まで持ち越すような重い宿業の報いがあるのが、ジワジワとだんだんと消えていくのではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">“いつか”ではなく“今すぐ”“直ちに”消滅するというのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">では、なぜ、ぱっと消滅させることができるのか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それは、十界互具の原理によります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">十界互具によって、宿業が消滅するというのを一言で簡単に説明することは難しいのですが、例えば、麻雀で言えば、手の中の牌が全部他の人の上がり牌という極限の状況でも、それを全部使って役満をつくれば、逆転勝利、みたいな。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">なんとなく相続してしまった田舎の土地が、大きすぎて固定資産税ばっかり取られて困りますわ、という状況から温泉が湧き出て、むしろプラスみたいな。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人の宿命転換の原理は、生命が本来持っている「仏界」を自身の胸中にあらわすことで、あらゆる困難を善に転じていけるんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">太陽が昇れば、無数の星の光が直ちに消え去るように、仏界の生命を現せば、厳しい宿業であっても全て一瞬で消し去ることができるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文では、「</span><b>死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候</b><span style="font-weight: 400;">」と仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ここで大事なのは、転重軽受がそのまま一生成仏への入り口であるという点です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「人天」とは十界の人界と天界、「三乗」とは声聞・縁覚・菩薩の境地、「一乗の益」とは成仏の功徳のことです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり転重軽受とは、単なる“業の清算”ではないんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">重い業を軽く受けるだけでなく、いつどこに生まれ変わっても、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・そして仏界の利益を得ていける。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">むしろプラスなんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり大聖人の仏法における転重軽受法門とは、苦難を受けることによって、その後の地獄の苦しみが消えるだけでなく、今すぐ、この身のままで、成仏できることを意味します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">すると宿業という存在そのものの意味が変わるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり、宿業とは単に罪の報いとしての存在だったのに、それを乗り越えれば成仏できるという、むしろプラスの存在へと変わるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">生きている以上、苦難のない人生はありません。信心を頑張っていても必ず苦難は起こります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかしその苦難こそは一生成仏のためにあるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今まさに、苦難や宿命の波に押し流されそうになって苦しんでいたとして、なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、これほどまでに信仰しているのに、と思う気持ちが出てきてもおかしくありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、そんな時こそ御書根本に行学を深め、戦い抜くべき時です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">宿命転換、変毒為薬を祈るところから戦いを起こしていくならば、その瞬間から宿業こそが私たちを一生成仏へと引き上げてくれる糧となるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生は綴っています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「転重軽受とは、単なる”業の清算”ではありません。これまでの『悪から悪へ』の迷いの流転をとどめて、『善から善へ』の幸福の軌道に入る生命の根本的な大転換をいいます。生々世々に、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界そして仏界の利益を得ていけるのです。すなわち、『転重軽受』は、即、『一生成仏』の大道を開く門です。言うならば、マイナスを”清算”してゼロにすることではなく、生命そのものの在り方を下降から限りない上昇へ、悪の軌道から確たる善の軌道へと、大きく方向転換することです。これが変毒為薬の妙法の力です」</span></p>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私自身も、病気、障害、貧乏の大三元、三重苦の真っ只中にあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし私の苦しむ姿からの宿命転換へのドラマを起こすことができれば、同じ状況で悩む多くの人の「苦難」を「成長への糧」にと変換できるはずです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ、私たちは降りかかる苦悩を自分だけの単なる苦しみで終わらせることなく、人生を深めるかけがえのない日々にするべく、御書根本、お題目根本で戦い抜いて参ろうではありませんか。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「弁殿並尼御前御書」講義（2025年7月度）</title>
		<link>https://soka-gosyo.com/zadankai-bendononarabiniamagozengosyo-202507/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2025 03:19:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[弁殿並尼御前御書]]></category>
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					<description><![CDATA[第六天の魔王、十軍のいくさをおこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土を、とられじ、うばわんとあらそう。日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし。 第 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「弁殿並尼御前御書」講義（2025年7月度）【The Great Battle】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/EYhXdDD3igI?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>第六天の魔王、十軍のいくさをおこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土を、とられじ、うばわんとあらそう。日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし。</b></p>
<p><b>第六天の魔王は、十種の魔の軍勢を用いて戦を起こし、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海の中で、凡夫と聖人がともに住んでいるこの娑婆世界を”取られまい””奪おう”と争っている。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身に当たって、大きな戦を起こして、二十数年になる。その間、日蓮は一度も退く心はない。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回学びます弁殿並尼御前御書は、日蓮大聖人が52歳の時、弟子の弁殿と弁殿と関わりのある尼御前にのために佐渡で執筆された御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この尼御前は在家で入信した女性で、おそらくは夫に先立たれた女性ではないかと言われています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また御文の中には、この尼御前が文字を読めないことに言及されています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まだ多くの民衆が文字を読めない、それも不思議ではない時代です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、尼御前は、大聖人から説法を直接うかがい、多くの教えを耳から学んでこられたのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり、このお手紙は尼御前に弁殿が読み聞かせるためのものなのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そのため耳で聞いてわかるような、わかりやすさと力強さが両立している文章となっています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">おそらく、弁殿が声に出して拝読するのを耳で聞くことで、尼御前は大聖人から直接お話しをうかがっているように思われたのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">流罪先の佐渡にいた大聖人は、苛烈な環境の中にいながら、鎌倉で弟子たちに厳しい弾圧の嵐が吹き荒れていたことを折々に報告を受けられていたのだと思われます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">それは、千人のうち999人が退転したと、大聖人が表現されるほどの大迫害でした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その中で、純真に信心を貫いていた尼御前に対し、「励まさずにはいられない」と激励の筆を執られたものと拝察されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄では、日蓮大聖人が民衆救済に立ち上がった「立宗」から20年あまりの間、熾烈な逃走を続けられ、その間、一度も退くことがなかったとご断言されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、多くの臆病な弟子が退転していく中で、尼御前が信心を全うしていることを賞賛されるとともに、尼御前が信頼している使用人を、大聖人の元に遣わしたことに深い感謝をされています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今回の拝読御文は、現実社会において、私たち仏法者がどのような戦いをして、そして勝利していくかが記された、とても重要な御文です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">仏法の戦いは絶対に負けられないという大聖人の気迫溢れる御文をともどもに拝して参りましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">最初に「</span><b>第六天の魔王、十軍のいくさをおこして</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">第六天の魔王とは、欲望に支配されたこの現実世界において、民衆を自在に操るというとんでもない存在です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">このとんでもないやつが「</span><b>十軍のいくさをおこして</b><span style="font-weight: 400;">」とあるとおり、バリバリにやる気を出して戦いに挑んできて、「</span><b>十軍</b><span style="font-weight: 400;">」と言われる１０種類の軍勢で善の勢力を攻撃しようとしてきます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その様子は「</span><b>法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土を、とられじ、うばわんとあらそう</b><span style="font-weight: 400;">」と仰せのように、熾烈な戦いとなります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">生死海の海中とは、生死の苦しみに覆われた現実世界を、大海に譬えた表現です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また同居穢土も、私たちが生きる現実世界のこととご理解ください。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">法華経を信仰し世界に広げようとする人と、かの１０種類の魔軍を従えた第六天の魔王は、この現実世界を「</span><b>とられじ、うばわんとあらそう</b><span style="font-weight: 400;">」との仰せです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まるでファンタジーの世界のように感じるかもしれませんが、実は、この現象は私たちの心の中で起こっているのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">第六天の魔王や１０種類の魔軍と言っても、その正体は、欲望や怒り、恐怖心、傲慢など、人の心にあるものばかりなんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまり魔との戦いと言っても、本質的には外敵を直接叩くというような闘争ではなく、臆病な自分との戦いだということなんです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">なので、具体的な〇〇さんが魔軍の一人とか、〇〇さんは完全に第六天の魔王やな、とかはありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして「第六天の魔王」と「法華経の行者」の長く激しい闘争は、どこか別世界にあるのではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">まさに私たちが現実世界で生きている最中に起こり続けているのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">お手紙をいただいた尼御前も、まさに現実世界で、厳しい迫害にあっていたことでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、信心の心さえ壊されなければ、再び立ち上がり、挑戦し、勝利し、幸福を築くことができます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「心こそ大切」であり、その最も大切な心を奪い、破壊しようとするのが魔の本性と言えるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、魔の本質は、元品の無明にあるとも言えます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">元品の無明とは、生命に本来備わっている根本的な無知や迷いの状態で、つまりはこの信心に疑念を抱かせようとする働きです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">この強敵である魔軍、元品の無明に打ち勝つことが、私たちが目指す人間革命の戦いです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、「とられじ・うばはんと・あらそう」との表現から、善と悪のどちらの勢力も拮抗している様子が伝わってきます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">善が勢力を増せば、悪もまた、それを阻もうと力を増します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これくらいでいいだろう、もう勝てるだろうと思った瞬間、悪の力が押し返してくるので、油断なりません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ではどうすれば、この恐ろしい魔軍との戦いに勝利することができるのでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">御文に「</span><b>日蓮その身にあいあたりて、大兵をおこして二十余年なり。日蓮、一度もしりぞく心なし</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「大兵をおこして」とは立宗宣言のことを指します。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「二十余年」とは、建長5年4月28日の立宗から、本抄の御執筆までのこと。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その間、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして竜の口の法難・佐渡流罪と、命に及ぶ大難が連続して起こっています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし「日蓮、一度もしりぞく心なし」とある通り、大聖人は嵐のような魔軍の攻撃に対して「退かない」という闘争を貫かれたのでした。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また、本抄のこの後の御文には、臆病では退転してしまう、とも述べられています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">信仰に対する疑念を抱いてしまった時に、臆病だと、簡単に退転してしまいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">つまりこの善と悪との闘争を勝ち切るには、魔を魔と見破り、勇気を出して弱い心を乗り越えることが最重要なのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生は綴っています。</span></p>
<blockquote><p><span style="font-weight: 400;">「第六天の魔王といっても、その本質は、生命に潜む元品の無明が、魔の働きとなって現れてきたものです。自身の境界を広げようとするから、止めようとする力が働く。船が進めば波が起こり、走れば風圧が生ずるように、人間革命の道を疑念を抱かせようとするのが、魔の本質なのです。決して、自分の信心が弱いから、また、自分の信心の姿勢が悪いから難が起こってくるわけではないのです」</span></p></blockquote>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちの大きな戦いには、必ず大きな魔が潜んでいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そして、色んなことに惑わされて、一つの疑念を持つと、戦いという行動を起こすことができなくなってしまいます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">広宣流布という偉大な闘争にあっては常に魔軍が競い起こることは当然です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは、時に先輩に指導を受けながら、魔は魔と見破って、己心の疑念を捨て去り、立正安国の対話を堂々と戦い切って参りましょう。</span></p>
<p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>座談会御書「日眼女造立釈迦仏供養事」講義（2025年6月度）</title>
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		<dc:creator><![CDATA[soka-gosyo-kougi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 08 Jun 2025 21:52:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[座談会御書講義]]></category>
		<category><![CDATA[日眼女造立釈迦仏供養事]]></category>
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					<description><![CDATA[譬えば頭をふればかみゆるぐ。心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし。教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき。 たとえば、頭を振れば、 ... <p>Copyright &copy; 2026 <a href="https://soka-gosyo.com">御書研鑽しよう会</a> All Rights Reserved.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><iframe title="「日眼女造立釈迦仏供養事」講義（2025年6月度）【Concerning the Statue of ShakyamuniBuddha Fashioned by Nichigen-nyo】" width="920" height="518" src="https://www.youtube.com/embed/PKpSeRK_EzA?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<blockquote><p><b>譬えば頭をふればかみゆるぐ。心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし。教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき。</b></p>
<p><b>たとえば、頭を振れば、髪が揺れる。心が働けば、身体が動く。大風が吹けば、草木も揺れる。大地が動けば、大海も荒れる。同じように、教主釈尊を動かせば、揺るがない草木があるだろうか、騒がない水があるだろうか。</b></p></blockquote>
<h2>背景と大意</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">今回学びます日眼女造立釈迦仏供養事は、日蓮大聖人が58歳の時、日眼女、すなわち、四条金吾の妻に与えられた御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そのとき日眼女は37歳。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">37歳は女性の厄年とされている年齢で、その厄年に起こるとされている災いに備えて、日眼女は大聖人に供養をします。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">その供養について大聖人がお返事をしたためたのがこの御書です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄には日眼女が「教主釈尊、一体三寸の木像を造立して供養した」と書かれておりまして、そのことから「日眼女造立釈迦仏供養事」と呼ばれています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">言うまでもなく、私たちの信仰の対象に絵や木で作られた仏像は存在しません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、大聖人はこの日眼女の仏像の供養に対して「日本一の女性である」とお褒めになられます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">仏像を供養すること自体は厳密に言えば本来の信仰ではありませんが、大聖人はその信心の姿勢そのものを尊いと感じられてお褒めになられたと推察されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日眼女の心からの純粋な供養には、広大無辺の功徳がある。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これが本抄に込められた大聖人の深き慈愛なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">本抄で大聖人は「あらゆる仏の根本である釈尊を揺り動かす信心があれば、かなわないことなどない」というご確信を述べられ、日眼女はその釈尊の像を造立した功徳によって、すべての神々や諸仏から守護されるとご断言されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さらに、すべての経の中の王である法華経だけに女性が成仏することが説かれていると明かし、日眼女の成仏が間違いないことを宣言されます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">また日眼女の厄年への心配については、日本中に巻き起こっていた念仏信仰のブームに流されることなく、釈尊の仏像を造立した供養によって、厄年に起こるとされる災いを払いたいという願いがかなうだけでなく、現世はもとより来世までも絶対的幸福に包まれると日眼女を讃えられます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">今回の拝読御文は、日眼女が釈尊の木造を作ったことに関連して、法華経を信仰することの功徳の大きさをご教示くださっている箇所です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">どこまでも温かい日蓮大聖人の日眼女への激励をともどもに拝して参りましょう。</span></p>
<h2>解説</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">まず「</span><b>譬えば頭をふればかみゆるぐ</b><span style="font-weight: 400;">」とあります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は、どうか日眼女に伝わって欲しいと、様々な譬えを用いて信心の本質を紐解いていらっしゃるように思います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">女性である日眼女に、まず「頭を振れば髪の毛が揺れる」という譬えで表現されたことに、深いお考えがあるのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">もちろん一部の男性については髪がほとんど揺れなかったり、揺れる髪もなかったりしますが、長い髪があれば、頭を動かせば髪が揺れるのは間違いありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大事なことは、髪の毛があるかどうかではなく、髪の根本である頭が動いているかどうかなのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く御文に、「</span><b>心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし</b><span style="font-weight: 400;">」との仰せの通り、根本となるものが動いたとき、その影響は必ず現実に形となって表れるということです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">これを現証と呼ぶこともできるかと思います。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">根本にあるものをゆり動かしたならば、その影響は現証となって現れる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">続く「</span><b>教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき</b><span style="font-weight: 400;">」とある通り、釈尊の木像を供養した日眼女は、必ず、その加護を受けることができる。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-weight: 400;">ここで「教主釈尊」について少し説明を加えますと、日眼女が釈尊の木像を供養したので、そのことを讃えるために「教主釈尊」と表現されていますが、この教主釈尊とは、私たちにとっては「御本尊様」と置き換えて読むべきでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちの信仰の根本は、日蓮大聖人の仏法であり、南無妙法蓮華経のご本尊です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さらにその意味を考えるならば、それは私たち自身の中に備わっている「仏界の生命」のことをおっしゃっていると理解することもできます。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大聖人は「教主釈尊」すなわち、私たちの仏界の生命を「</span><b>うごかし奉れば</b><span style="font-weight: 400;">」と表現されています。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちの信仰は、じっと黙っていてもその功徳を得ることができません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「</span><b>うごかし奉</b><span style="font-weight: 400;">る」ことが、功徳を得るための秘訣とも言えるでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">ご本尊を揺り動かし、自身の仏界の生命をたたき起こすことで始めて、草木を揺るがし、水を騒がすことも可能となるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">諸天善神に護られたいと願って、諸天善神に対して祈っても仕方ありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">すべての菩薩、諸天善神の根本は南無妙法蓮華経です。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">「教主釈尊」も南無妙法蓮華経によって成仏しました。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは、根本たる南無妙法蓮華経のご本尊に強盛に祈ることで、自身の仏界の生命を揺り動かし、諸天善神を揺り動かすことができるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大地がそこにあるだけでは水が騒ぐことはありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">大地を揺るがすような、全身全霊の本気の信心によって、水が騒ぎはじめる。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">そうやって水を騒がせることができないとすれば、私たちの信仰に意味はありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">実際に自分の人生を切り開くことができるからこそ、私たちの信仰は偉大なのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">日蓮大聖人の仏法は、人間を超越した存在にお願い事をして、こっそり叶えてもらうような“おすがり信仰”ではありません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちは、南無妙法蓮華経のお題目で、自分の幸福を自分で勝ち取っていけるのです。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">池田先生は次のように語っています。</span></p>
<blockquote><p><span style="font-weight: 400;">「妙法の祈りの力は計り知れない。一切をより良く変えゆく根源の力用である。小さく推し量っては損をする。広布の大願を起こし、大きく強く、具体的に祈り、行動するのだ。友の幸福と世界の安穏を祈念する題目は、相手の法性に必ず届き、生命の奥底をも変革できる。今日も強盛な祈りから勇んで価値想像を！」</span></p></blockquote>
<h2>まとめ</h2>
<p><span style="font-weight: 400;">私たちが、これから直面する戦いには、苦労と苦悩があり、時間もお金もかかることがあるでしょう。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">しかし、私たちが勇気の対話によって大地を揺らし、水を騒がせて、大きく前進したならば、その功徳は計り知れません。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">私自身、無い知恵を絞って、無い勇気を振り絞って、自ら行動を起こして、諸天善神を奮い立たせる戦いをしてまいります。</span></p>
<p><span style="font-weight: 400;">さあ、私たちは、栄光の完全勝利に向かって、御書を拝し、お題目をあげて、さらにさらに、日々前進してまいろうではありませんか。</span></p>
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